鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<188>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<188>
2013年9月23日「信仰の世界を垣間見る(三)3」


聖書の言葉
来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らがわたしの民となる。
エレミヤ書31章33節)


 イエス・キリストが「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ福音書5章17節)と言われたとき、「律法」は十戒に基づくが、旧約聖書に示されている神様の御心全体であると言わなければならない。律法はモーセ五書であり、預言者を通して人々に示された神様の御心なのである。律法の原語は「トーラー」であり、これには「教え」の意味があり、法律と言う意味合いではない。神様の教えは人間が正しく神様の御心に従って生きることなのである。その基調をなすものが「十戒」であり、十戒を基としていろいろな規定が造られたのである。その規定には祭儀的規定、司法的規定があるが、倫理的な規定は人々の基本的な生き方を導いている。いくつかの倫理的な規定を見ておこう。
 申命記24章5節以下は「人道上の規定」が記されている。その一つに、「畑で穀物を借り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい」と規定している。それは聖書の人々が「エジプトで奴隷であったことを思い起こしなさい」と示されるように、同じように苦しんでいる人を、かつて自分が体験しているので、苦しむ人々を顧みなければならないとの教えなのである。それと共にこの規定の根底には第十戒の「欲してはならない」の教えがあるのである。規定は人間の営みのすべてにおよび示されているが、その根底にあるものは十戒であるということである。
 聖書は旧約聖書新約聖書がある。「約」というのは「約束」の意味である。すると「古い約束」、「新しい約束」ということになるので、「古い約束」だから、今は必要ないと思うかもしれない。そうではなく、「新しい約束」は「古い約束」を根底にしているのである。そもそも神様の御心は旧約聖書に示されているのであり、新約聖書は既に示されている神様の御心を深めると言うことなのである。だから「古い」、「新しい」約束であるが、全体を一つの聖書としているのである。
 では「約束」とは何か。神様が人間をお救いになる約束と言うことである。それには神様の教えをしっかりと守らなければならない。守るならば祝福が、守らないならば苦しまなければならないという約束なのである。実際、400年間のエジプトでの寄留時代の大半は奴隷として生きた聖書の人々を神様はお救いになる。それが大きな救いの根源であるが、人間を真にお救いになるために、奴隷から解放された人々を教え導くために、律法(トーラー)を与えるのである。基本は十戒であるが、神様の教えは戒めにとどまらず、歴史を導くことにおいて示されていくのである。旧約聖書は最初にモーセ五書(創世記、出エジプト記レビ記民数記申命記)があり、続いてヨシュア記、士師記と続いてエステル記までが歴史書と言われている。次にヨブ記から雅歌までが文学書である。そして、イザヤ書エレミヤ書の順にマラキ書までが預言書である。歴史、文学、預言を通して神様の教えが示されているので、旧約聖書全体が律法なのである。
 旧約聖書は「救い主待望」を記し、新約聖書は「救い主成就」として説明されるが、もちろんそれは間違いではない。しかし、私は、旧約聖書に普遍的神様の教えが示されており、新約聖書が教えの展開であり、完成であると思っている。だから、御言葉に向かう説教は、まず旧約聖書の普遍的神様の教えを示され、新約聖書イエス・キリストが教えを深め、導いていることを示されているのである。しかし、それだけでは救いにはならない。神様の普遍的な教えをイエス様は繰り返し示されたが、人間は教えを実践することができないのである。そこでイエス・キリストは十字架にお架りになり、人間の根本的な原罪、自己中心・他者排除をご自分の死と共に滅ぼされたのである。人間はその十字架の贖いを信じなさいと教えているのが新約聖書なのである。だから、単に旧約聖書は救い主待望、新約聖書は救い主の実現という図式では、説明が薄いと思っている。
 新約聖書はまず四つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)が置かれている。イエス様による神様の教えと十字架への道を記している。そしてその後に使徒言行録がある。弟子達のイエス様の救いの証しと原始教会形成を記している。その後はローマの信徒への手紙から始まり、黙示録に至るまで弟子達、使徒達の証し、宣教活動が記されている。従って、新約聖書旧約聖書で示された神様の教えを深め、教えの完成である十字架の贖いへと導いているのである。イエス様が、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われている通りである。
それではイエス・キリストの「律法の完成」を示されたい。



ミケランジェロの「モーセ像」
サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会に展示されている。
2012年9月にローマ訪問で写す。



ペトロが牢に入れられ、鎖(ヴィンコリ)で縛られたが、
その鎖が祀られている。