鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<187>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<187>
2013年9月20日「信仰の世界を垣間見る(三)2」


聖書の言葉
わたしの法を行い、わたしの掟を守り、それに従って歩みなさい。わたしはあなたたちの神、主である。
レビ記18章4節)



 人間が正しく生きるためには「定め」、「約束事」が必要であることは言うまでもない。約束事が無いと、人間は勝手なことをしながら生きることになるので、混乱の世になるのである。そこで、みんなが平和に生きるために「定め」や「約束事」を決め、それに沿って生きるようになる。宗教的には「戒律」であり「掟」である。
 旧約聖書には人間が造られ、アダムやエバ、ノア等が登場する。しかし、これらの人間は神話の世界であり、これらの人間を通して神様の御心が示されるのである。たとえば、最初の人間アダムは土の塵で造られたが、まだ粘土であって人間ではない。神様は造られた粘土に神の「息」を与えるのである。すると粘土の人の形は生きた者となり、立ちあがったのである。その「息」は「ルアッハ」と言い、「霊」とも「風」の意味もある。ペンテコステに弟子達に風が吹いたとき、弱さの中にいた弟子たちは立ちあがった。神様の「息」をいただいたからである。このように神話の世界であるが、神様の御心が示されているのである。
 聖書において人間の歴史が始まるのはアブラハムからである。その後、イサク、ヤコブと族長物語が続いて行く。ヤコブに続く族長はなく、ヤコブの12人の子供たちが成長して12部族となる。一つの民族であるために12部族の宗教連合体となる。その宗教連合体をイスラエルと称するのである。ヤコブの時代に全国的な飢饉が起き、食料を求めて難儀するのであるが、ヤコブの子供のヨセフがエジプトの大臣になっており、食料を豊富に貯蔵しているエジプトに寄留することになる。その後、イスラエル民族がエジプトに寄留する事情を知らない王様が、増大するイスラエル民族に脅威を持ち奴隷にしてしまう。寄留すること400年の多くは奴隷として生きることになる。その苦しい奴隷から解放するのは、神様に立てられたモーセであった。モーセはエジプトからイスラエル民族を連れだし、神様の約束の地、「乳と蜜の流れる土地」カナンへと向かうのであるが、最初の宿営地はシナイ山の麓であった。シナイ山モーセが神様から奴隷の民を解放するように召命をいただいた場所である。モーセは解放を報告するためにシナイ山に登る。そこで与えられたのが「十戒」である。今後、神様の民として生きて行くにあたり、「定め」、「約束事」を与えて導くのである。モーセは奴隷の民を救い出すこと、そして「十戒」により人々を神様の民として導く使命も与えられていたのである。
 「十戒」はユダヤ教の原点であるが、キリスト教においても信仰の基となっている。その「十戒」は以下のように示されている。出エジプト記20章1節から17節に示されている。

神はこれらすべての言葉を告げられた。
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」
第一戒 「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」
第二戒「 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
第三戒「 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」
第四戒「 安息日を心に留め、これを聖別せよ。 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
第五戒「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」
第六戒「 殺してはならない。」
第七戒「 姦淫してはならない。」
八戒「 盗んではならない。」
第九戒「 隣人に関して偽証してはならない。」
十戒「 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」

 キリスト教において、根底にあるのは「十戒」である。この基本の生き方「十戒」を守ることができないので、イエス・キリストは十字架にお架りになったのである。