鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<478>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<478>
2019年4月15日「いろいろな歩み出し」

聖書の言葉
「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥しをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。」
新約聖書ルカによる福音書13章8-9節)

4月を歩みだしているが、2019年度の始まりである。本来、この3月で担っている幼稚園の園長を退任する予定であったが、いろいろな事情があり、2019年度も担うことになった。その幼稚園では先日の10日には入園式が行われ、新しいお友だちを迎えて歩みだしている。道を歩けば真新しいランドセルを背負った一年生がお友達と共に、また保護者と共に歩いている。その姿を見るだけでも新しい歩みだしを示されるのである。
昨日の14日はキリスト教では「棕櫚の主日」と称し、イエス・キリストが十字架への道、受難へと向かう記念すべき日でもある。今年の復活祭、イースターは21日である。その前の40日間は受難節であり、キリストの受難を偲びつつ歩むのである。だいたいは、4月の始まりは受難節の最中なのである。3月中に復活祭を迎えるのは、2024年3月31日、2032年3月28日、2035年3月25日である。その他は、4月はキリストの受難を偲びつつ歩みだすのである。このことは大事なことでもある。キリストの受難は人間を救うためなのであり、そのために十字架に架けられたことになる。人間の自己満足、他者排除の根本的の姿勢を持つ人間を救うために十字架に架けられたのであった。今年度も受難節をもって歩みだしているので、この一年、他者の存在を受けとめつつ歩みたいと示されている。
その14日には、六浦谷間の集会に、3名の知人が出席され、わが家を含めて8名で棕櫚の主日の礼拝をささげたのであった。礼拝後は食事をいただきながら、親しく歓談をしたのである。日本の教会は受難節ということで、質素な生活をしつつ過ごす場合が多い。キリストの受難を示されれば当然なのかもしれない。しかし、キリストの受難は私たちの大きな喜びなのである。このご受難があって、救われた喜びを持って歩んでいるからである。そうであれば、2019年度の歩み出しは喜びつつ出発したいのである。
我が家の源平桃の花については前回のブログでも紹介しているが、今は葉が生えて花が散りつつある。桜が終わり、源平桃の花も終わるのであるが、我が家の庭には「姫りんご」の花が満開となっている。昨年度は10個くらいの姫りんごが実ったが、今年は沢山の姫りんごが実るであろう。冬の柚子、春の源平桃の花、そして姫りんごと続く我が家の庭を楽しみにしている。ミカンの木も、昨年は1個しか実らなかったが、今年はたくさん実りそうでもある。
いろいろと希望を持って歩みだしている。後一ヶ月もすれば80歳になるのであるが、いろいろな歩み出しと共に希望がある。さあ、曲がりそうな腰をまっすぐにしようか。

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姫りんご。今年は花がたくさん咲き、豊かな実をつけそうだ。

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一つしか実らなかったミカンの木。でも今年はたくさん実りそうである。

 

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