鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<479>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<479>
2019年4月22日「イースターを喜びつつ」

聖書の言葉
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられ頃、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
新約聖書ルカによる福音書24章5-7節)

4月21日はイエス・キリストの復活祭(イースター)である。今年もイースターをお祝いすることができ感謝している。クリスマスは社会的にも知られており、むしろ教会より賑やかにお祝いされている。別にクリスマスの意味を知らなくても、贈り物や喜びあうことでクリスマスを迎えたことになる。それに対してイースターは、社会的には一向に盛り上がらない。イースターツリーもなく、イースターソングもなく、盛り上げる要素がないのである。しかし、教会では大事なお祭りとして迎えている。イースターとはイエス・キリストが死んでからよみがえったということのお祝いなのである。暗い社会に現れたイエス様は、人々に喜びと希望を与える。しかし、時の指導者たちの妬みにより十字架に架けられ、殺されてしまうのである。そして埋葬されるが、三日目に死者から復活する。科学的には理解できないが、神様がイエス様を復活させ、今も生きておられることを信じているのがキリスト教の信仰なのである。生きておられるイエス様が、現代に生きる人々を導いておられる信仰は、平和の根源であり、人間の基本的な歩みを示されるのである。
このようなイースターの示しは社会には浸透しない。キリスト教の人々だけが、イースターをお祝いすると言う訳である。しかし、社会の中でも「イースターエッグ」を手にされる方がおられる。キリスト教幼稚園ではイースターのお祝いにはイースターエッグがプレゼントされる。イースターの意味をお知らせし、子どもたちが持ち帰ったイースターエッグで、なんとなくお祝いの意味を示されるであろう。そのイースターエッグ作りは、楽しみつつ関わるのである。六浦谷間の集会では、出席者が多くいないので、それほど沢山は作らない。それでも知人が数人出席することがある。そんな時には20個くらいのイースターエッグを用意するのであるが、今年は知人の出席はないので10個くらいにしておいた。その作業は連れ合いのスミさんが行うのであった。
イースターエッグ作りと言えば、前任の大塚平安教会時代を思い出す。毎年150個くらいは用意していた。教会学校の先生たちや青年の皆さんが集まり、楽しみつつ作るのであった。そしてイースター礼拝に出席された皆さんにプレゼントする。残ったエッグは牧師夫婦が、礼拝には出席できない教会の皆さんにお届けするのであった。連れ合いのスミさんは、近所の皆さんにも差し上げていた。中には子どもの頃、教会学校に出席していたので、そのころ卵をもらったという人があり、歴史を示されるのであった。
フランスのノートルダム大聖堂が火災となり、重要文化財が消失したことは、悲しむべきことである。数年前にこの教会を見学した時、イースターが彫刻で掲げられていた、それはどうしたのだろうか。彫刻は消えても今も生きるイエス様への信仰は消えないのがキリスト教なのである。

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六浦谷間の集会のイースターカード

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お祝いのイースターエッグ

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フランスのノートルダム寺院に掲げられているイースターの彫刻

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ノートルダム寺院の前で記念撮影。2011年4月。

 

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