鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<189>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<189>
2013年9月25日「信仰の世界を垣間見る(三)4」


聖書の言葉
祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りに立って祈りたがる。あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。
(マタイによる福音書6章5-6節)




 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(マタイによる福音書5章21-22節)とイエス・キリストは教えておられる。「殺すな」は十戒の第六戒に示されている。「殺した者は裁きを受ける」とは司法的規定であり、「人を殺した者については、必ず複数の証人の証言を得たうえで、その殺害者を処刑しなければならない」(民数記35章30節)とある。人々はこの掟を守って生きている。普通の生活をしていれば、人を殺すことはない。だから人々は律法を守っていると思っている。そのような姿勢に一石を投じたのがイエス様である。イエス様は、「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」と示すのである。人を殺していないので、律法を守っているという短絡的な姿勢ではなく、内面的な姿勢を問うている。結果ではなく、過程において、人間関係をどのように築いているのか。あの人は好感が持てる、あの人はおもしろくないと選択している私達である。「兄弟に腹を立てる」ことは、日常茶飯事ではないだろうか。すると人間は皆、裁きを受けねばならない…。
 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女をおかしたのである」(マタイによる福音書5章27-28節)とも教えておられる。「姦淫するな」は十戒の第七戒である。この七戒を基にしてレビ記18章には「いとうべき性関係」の規定がある。十戒の第十戒は「欲するな」であり、「みだらな思い…」はこの戒めにも触れるのである。イエス様は「殺すな」と同じように人間の内面的な姿を問うている。美しい存在については、女性でも男性でも気持ちが動いてしまうのは、人間の弱さであり、原罪的な姿である。「もし、右の眼があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである」と示している。「あなたの生き方において、裁きを受けてはならない」と律法を見つめ直している。こうなると人々とのお交わりができなくなるのではないか、と思ってしまうのであるが。
 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない」(マタイによる福音書5章38-39節)と教えられる。十戒を背景にするならば、この規定は第六戒の「殺すな」、第十戒の「欲するな」が基となるであろう。「目には目を、歯には歯を」は復讐の論理として引用されることがある。しかし、それは間違いである。この規定は出エジプト記21章22節以下に記される。「人々がけんかをして、妊娠している女を打ち、流産させた場合は、もしその他の損傷がなくても、その女の主人が要求する賠償を支払わなければならない」との規定の中で定められている。「もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足…」と規定し、償いとして規定されている。イエス・キリストは当時の社会が、この規定を「復讐」の根拠としているので、正しく規定の見直しをさせ、「復讐してはならない」と教えておられる。そして、積極的に他者に自分を開いて向き合うことを教えておられる。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左をも向けなさい」と教えておられるのであるが…。
 時々、ビデオ「ベン・ハー」を鑑賞している。幸せな家族を襲った苦難にたいして、この苦難をもたらした相手に復讐を誓う。復讐に生きるとき、イエス・キリストに出会うのである。自分が奴隷として連れて行かれる時、水を与えてくれたのが「この人」であった。そして、「この人」が十字架を負わされて刑場に向かうとき、彼も「この人」に水をさしだしたのであった。そして十字架に架けられた「この人」が、「父よ、彼らをお赦し下さい」と祈りつつ息を引き取った時、自分から復讐が消えて行くのを悟るのである。復讐は復讐を呼び、解決にはならないこと、むしろ自分を開いて相手に接することを教えておられる。
 イエス・キリストが現れた当時の社会に、律法の再解釈を導いたのがイエス・キリストである。十戒、律法を基として生きることであるが、当時の律法主義者、ファリサイ派の人々に対しては断固として臨んでいる。彼らは律法に示された通りの生き方をしており、人々に強制していた。そして、自分たちは律法に忠実であるので、神様の祝福をいただいていると自負していたのである。それに対してイエス様は、律法に示されている神様の御心を基としなければならないと教えられる。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ」と厳しく臨むイエス・キリストである。表面的な結果を求める生き方に対して、内面的に神様の御心をいただく生き方を導いている。いつも人から評価されることを望んでいる私でもあるので…。
 こうして、「律法の完成者」イエス様に教えられるのであるが、噛んで含めて教えられたとき、「はい、分かりました。そのように生きます」と言うことができない自分を知るのである。



サグラダ・ファミリアの「聖誕の門」
イエス・キリストの聖誕の彫像と喜ぶ人々の彫像。



サン・ピエトロ大聖堂におかれているミケランジェロの「ピエタ」。