鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

日本正常論( 平和を実現しなさいと )

 
 昨日のブログは、リスがいる、いないで平和の論理を述べているようですが、これは夫婦の状況であり、平和についてはグローバルな視野で考える必要があります。最近、日本基督教団出版局発行のJ・ディオティス・ロバーツ著「ボンヘッファーとキング」(抵抗に生きたキリスト者)を読みました。ボンヘッファーはナチズムと闘い、キングは人種差別と闘い、共に39歳の若さで天に召されたのであります。二人はインドのガンディーの影響があったことは確かです。悪なる存在に敢然と立ち向かうこと、それは暴力ではなく、キリストの平和に押し出されての戦いでありました。そして、二人とも根底にある祈りはイエス・キリストが示した「主の祈り」でありました。「み国を来らせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈りつつ、悪と戦ったのでした。私も一人の宗教者としての立場において、イエス・キリストの平和の実現を信じるものです。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイによる福音書5章9節)と示していますが、ここで示す平和とは、旧約聖書が示す十戒が根底にあります。「父母を敬え、殺すなかれ、姦淫するなかれ、盗むなかれ、偽証するなかれ、むさぼるなかれ」と基本的に人間の生き方を教えています。この十戒を守るならば、人間の世界は平和に導かれるのです。しかし、人間はできません。それで神様はイエス・キリストを十字架につけさせ、イエス・キリストの十字架の死により、人間の奥深くにある自己満足、他者排除を滅ぼされたのです。従って、人間は十字架を仰ぎみるとき、他者に心を開き、共に生きる者へと導かれるのです。ここに平和の原点があるのです。「キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェソの信徒への手紙2章15節以下)と聖書は示しています。平和はここに原点があります。
 文藝春秋12月号に「日本堕落論」と題して石原慎太郎氏が執筆していますが、血が凍る思いで読みました。氏は、日本の堕落ぶりを指摘し、それはアメリカ追従主義が日本を骨抜きにし、自我を喪失させたと指摘しています。事が起きても、「愚痴か諦めの域を超え」ないと嘆いています。昔だったら、悪いものは一連の壮士によって報復殺害されていたはずだと言い、悪に立ち向かう気力すらないとしています。「誰しも平和、安寧を望まぬ者はいまいが、平和というものはただ願っただけで得られるものでは決してない。そのための代償が必ず要るのだ。それは侵略に備える軍備であり、ある場合には戦争ともなる」としています。そのため、日本は核の保有国にならなければならない、憲法を改正すべきだと主張しているのです。広島の原爆死没者慰霊碑に「過ちは繰返しませぬから」と記されていることに対して、「自虐的な文言」としているのです。アメリカ一辺倒に対して、「屈辱を屈辱として捉えられぬ者は自我を欠いた奴隷でしかない」とも述べています。憲法を変えて核保有国になること、教育を根本的に変えて自国を守ること等、厳しい提言をしていますが、果たしてそれが平和なのかと思います。
日本国憲法平和憲法です。これを守らなければなりません。憲法九条は示しています。
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない
<聖書の言葉>
実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、
(エフェソの信徒への手紙2章14節)