鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

日本正常論 2 ( 賜物を生かしつつ )

 
 今の日本の社会は一体どうなっているのだろうと思います。確かに、石原慎太郎氏が指摘するように、「敗戦から65年の歳月を経て、この国では人間そのものの変質が露呈してきている。これはおそらく他の先進国にも途上国にも見られぬ現象に違いない」ということであるかも知れません。東京における最高齢者と言われていた人が、実は30年前に亡くなっており、家族はそれを隠しており、その間家族は父の年金を受領し続けていたということ。新潟のある町で、男が少女を誘拐し自宅に連れ込み、10年近く二階の一室に監禁し続けていたこと。同じ家に住む二人暮らしの母親が気がつかなかったこと。このように人間が変質しているのは、「長きにわたって続いてきたあてがい扶持の平和のうちに培われた平和の毒、物欲、金銭欲でしかない」と指摘するのです。「あてがい扶持」と言っているのは、「占領軍がわずかな日数の内に即製して与えた憲法」を指しています。そこで示されている「平和」なるものが、日本人を変質させているとしているのです。憲法を改定して、核保有国となること、それは核を使うためではなく外国に対する抑止力であるとしています。核保有国であれば北朝鮮による拉致はなかったはずだというのです。「あてがい扶持の憲法の拝受から発して今日に至る国家としての自己喪失の回復に、我々は今何を果断に試みなくてはならぬのだろうか」と問いかけ、「教育を再生し国家の誇りの回復を」と指摘しています。そのためには教育勅語の復活をあげています。この教育勅語は「いかなる時代においても誰にも否定できぬ人間社会の原理に他ならない」とも言います。「それを幼い頃から子供たちに重々しい言葉で繰り返し唱えさせ、頭ではなしに体に刷りこむことこそが肝要に違いない」、「ゆとり教育などという愚劣な試みを行わしめてたちまち教育の水準を低下せしめた愚かなる文科省の権威をかざしてでも、子供たちに暗証刷りこみさせたらよい」との論理を展開しています。
 刷り込み教育は画一的な人間を育てることです。別の言葉で言えば、洗脳でもあるのです。テロリストたちが自爆してでも相手を攻めるのは、画一的に教育されているからであります。日本の軍国政治、特攻隊、天皇のために、刷りこみ教育によるものでした。国ごと刷りこみ教育に生きている国々をテレビでも放映していますが、再び画一的な日本人にしようとしているのでしょうか。人間はこの世に生を受けたとき、一人の存在として貴いのです。それはまた、一人一人が違う存在でありますが、互いに他の存在を敬い、共に生きることが基本的人間であります。画一的に人間を育てようとするとき、ついて行けない存在があります。画一政策はついて行けない存在を切り捨てるでしょう。画一政策の方向は一部の論者が決めていくものであり、まさに一人一人の人権を踏みにじっていくのです。一人の存在には生を受けている意味があるのです。不必要な存在などあるはずがありません。生を受けている一人一人に神様は賜物を与えておられるのです。大きい小さい、強い弱いの違いがありますが、それぞれがその賜物を提供することによって、社会が維持され、喜びとなっていくのです。ゆとり教育とは、そのように一人一人の賜物を引き出し、励ましてあげることでありましょう。
 ドレーパー記念幼稚園の園長を30年間務めました。一貫して示してきたのは、イエス・キリストが教えて下さった「自分を愛するように、お友達を愛する」ことです。そして、卒業する子供の頭に手を置いて、「神様を愛し、人々を愛する人になりますように」と祝福のお祈りを与えて送り出してきました。この愛をアガペの愛といいます。自分の気持ちを超えて、そこにいるお友達を受け入れていくこと、共に歩もうとすることです。その愛をもって生きるとき、祝福の社会へと導かれていくのです。だから日本の社会に失望していません。アガペを持つ子供たちの成長に希望を持っているからです。
<聖書の言葉>
あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。
(ペトロの手紙<一>4章10節)