鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<190>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<190>
2013年9月27日「信仰の世界を垣間見る(三)5」


聖書の言葉
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです
(コリントの信徒への手紙<一>1章18節、25節)



 律法の完成者としてイエス・キリストは、律法に向かう真の姿勢を示された。しかしそれにより私たちは、兄弟に腹を立てながらの日々であり、姦淫すれすれの人間関係があり、右の頬を打たれて、左をも向けられないでいる私たちを知るのである。本当に自分の弱さをつくづくと示される。イエス様が律法に対して、このように向き合うのだと教えて下さったので、そのように自分を切磋琢磨して生きなければならない、と思っている。そこで、トマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて」を紐解いて、訓練を始める。しかし、読めば読むほど、イエス様が教えられた律法の真の生き方から遠のいていることを示されるのである。また、ボンヘッファーの「キリストに従う」を読む。厳しく信仰の姿勢を問われるのである。
 そこでイエス・キリストは「律法」と言う言葉から離れて、神様の御心を言いかえる。「神様を愛し、隣人を自分のように愛しなさい」と言い直している。これはマタイによる福音書22章34節以下に示されている。要するに十戒を二つにまとめたということである。十戒の第一戒から第四戒までは神様を中心とする戒めであり、第五戒から第十戒は人間関係を中心とする戒めである。もう、「父母を敬え」、「殺すな」、「姦淫するな」、「盗むな」、「偽証するな」、「欲するな」等、いちいち戒めを示されなくても、「隣人を愛する」と言うことでよろしい訳である。人々はやれやれと思い、もう面倒くさい律法とは「おさらば」だと思ったであろうか。「隣人を自分のように愛する」とは美しい言葉である。そういう人生を歩みましょうと思う。他者を愛すると言うこと、イエス様は新しい戒めとして人々に与えておられるのである。
 「これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネによる福音書15章11〜12節)とイエス・キリストは教えておられる。「掟」も「律法」も意味は同じである。愛することはイエス様が示した戒めであるから、人間は戒めを守って生きることが求められている。この愛の戒めに導かれ、歴史を通して多くの人々が愛の実践を重ねつつ歩んでいる。ところが、このイエス様の愛の戒めは、やはり「律法」の範疇になってしまう。戒めであるからである。戒めを守った段階で、あの律法学者のように「律法を守って生きている」と言う自負に変わるといことだ。イエス・キリストは、そのような人間の弱さを良くご存じである。人間が愛の戒めを守ることができないので、十字架にお架りになり、愛の実践へと導かれたのである。
 人間が愛の戒めを実践できないのは、人間の原罪があるからだ。原罪については旧約聖書の創世記3章1節以下に示される。エデンの園にいるアダムとエバは、神様から何をしても良いが、一つのこと、園の中央の木の実を食べてはならない、と戒められている。ところが蛇が現れて二人を誘惑する。二人は改めて禁断の木の実を見ると、「いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」ので、思わず食べてしまうのである。これが原罪なのである。戒められていたとしても、自分の思いを満足するために実行する。そのために他者を排除する。人間の自己満足、他者排除こそ原罪の基であると聖書は指摘しているのである。イエス様から「互いに愛し合いなさい」と戒められても、戒めを忘れて自分の思いを達成する。それが人間なのである。
 人間は戒めを与えられても、実践できない。原罪があるからだ。その原罪を見つめて下さったのがイエス・キリストの十字架の贖いなのである。人間はどんなに律法、神様の教えをいただいても、神様の求める義人になれない。そこで、神様は独り子なるイエス・キリストを十字架に付けさせ、人間の中にある原罪を滅ぼされた。これがキリスト教の救いの図式である。キリスト教を垣間見るのは、ただそれだけでよい。イエス・キリストが十字架の死と共に人間の自己満足、他者排除をも滅ぼされたと信じることである。しかし、人間は常に原罪に生きようとしている。だから、キリスト者はいつも十字架を仰ぎ見つつ生きるのである。そのうえで律法を実践する。「神様を愛し、隣人を自分のように愛しなさい」とのイエス・キリストの戒めを実践することへと導かれる。そのために聖書を読み、祈りつつ生きる。福音に生きる喜びを証しすることができるのである。



バルセロナにあるフレデリック・マレー美術館に
展示されているいろいろな聖母子の彫像。



サグラダ・ファミリアは十字架の救いを証し続ける。