鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <30>

 

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<30>
2011年12月7日 「平和への道 (3)」 


聖書の言葉
実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律づくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
(エフェソの信徒への手紙2章14-16節)


紀元313年にミラノ勅令によりキリスト教が公認され、発展的にローマがキリスト教化して行くようである。いくつかのキリスト教史を見ても、いつの時からローマがキリスト教になったかを記していない場合が多い。いくつかの文献を紐解いてみたが、はっきりと記している書物はないのである。その点、塩野七生さんは「ローマ人の物語」で、ローマがキリスト教を国教とした時点を詳細に記している。紀元388年、東ローマ帝国の皇帝テオドシウスは西ローマ帝国に対する反乱軍を鎮圧する。西ローマ帝国の皇帝ヴァレンティニアヌス二世は少年であり、自分の管轄下にあるブリタニアガリアの反乱の鎮圧を東ローマ帝国の皇帝テオドシウスに仰がねばならなかった。テオドシウスはこれらを鎮圧することによって西方も東方も支配するようになるのである。この年、41歳になっていたテオドシウスは首都ローマに行き、元老院議員たちと会う。そして、その元老院議員たちに決断を迫る。「ローマ人の宗教として、あなた方は、ユピテルを良しとするか、それとも、キリスト教を良しとするか」との問いである。これについて元老院議員は議論をどれだけ重ねたにしても、テオドシウスが求める回答を出さざるを得なかったのである。圧倒的な多数で「キリスト教」を採択したのである。このあたりの状況を引用しておく。「1000年以上にわたってローマ人から最高神と敬われてきたユピテルには、まるで生身の人間に対してのように有罪が宣告された。そして、ローマ人の信仰の座には、ユピテルに代わってキリストが就くことが決まったのだ。これはローマ帝国の国教は、以後、キリスト教になるということの宣言であった。またこれは、ローマの元老院という多神教の最後の砦が、キリスト教の前に落城したことを意味する。建国の当初からローマ人とともに歩んできた元老院は、1141年後に、キリスト教の前に降伏したのである。降伏したのだから、その後の敗者の運命を決めるのは勝者である。採決を終えた元老院の多くが、皇帝の要求を容れて、ローマ古来の神々を捨て、キリスト教の神の信徒に代わった」(同書文庫版第40巻123頁以下)。
キリスト教を宣べ伝えたのは弟子たち、使徒たちである。しかし、大きく世界に浸透させるのはローマ帝国であったともいえるのである。「ローマ人の物語」を読みながら、一つ示されたことは、主イエス・キリストの勝利ということである。主イエス・キリストが生まれたとき、皇帝はアウグストゥスであった。このアウグストゥスが初代皇帝になる。その基礎を築いたのはユリウス・カエサルである。カエサルをもって皇帝とする場合もあるが、カエサルは皇帝の基礎を築いたのである。カエサルにしてもアウグストゥスにしても「平和の王」と人々から称賛されるのである。その「平和の王」の時代に主イエス・キリストが出現したのである。そして皇帝の「平和の王」は滅びて行くが、主イエス・キリストの「平和の王」は現代にいたっても、世界に平和を与えているのである。その「平和の王」の出現であるクリスマスを待望する時となっている。
 「ローマ人の物語」を読んで、考えさせられたことを記した。E・ギボンが「ローマ帝国衰亡史」を書いているが、ローマ帝国は衰亡して無くなったのではない。すべての発端を提供していることを思えば、ローマは現代に及んでいることを示される。身近なことを言えば、上下水道の開発はローマに端を発しているのである。それにしても人間の世界は、いつになったら戦いが無くなるのだろう。世界は新しい世を求めて改革のあらしが吹き荒れている。「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、」と聖書は証している。この聖書の言葉を深く受け止めて歩まなければならない。



2005年、大塚平安教会の待降節講壇。



クリスマスツリーを飾り、子ども達もイエス様のお生まれになるクリスマスを
待ちわびる。



窓は楽しいステンドグラスとなる。