鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<197>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<197>
2013年10月16日「忙中に寸暇を得る」


聖書の言葉
週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起してみると、もう死んでいた。パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている」。そして、また上に行って、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。
使徒言行録20章7-12節)



かねてより講演を依頼されていた清水ヶ丘教会壮年会の修養会が、去る10月13日〜14日、葉山の湘南国際村センターで開催された。13日は主日礼拝であり、第二日曜日なので横須賀上町教会に赴く。礼拝説教、聖餐式を担当し、礼拝後はお茶をいただきながらのお交わりがあり、帰宅したのは午後1時30分頃である。清水ヶ丘教会壮年会の修養会は午後3時30分から開会礼拝であるが、その時間に行かれないので、夕食までに行くことにしていた。帰宅後は一休みし、午後4時前に赴く。横横道路の朝比奈インターから入り、横須賀・葉山で降り、そこから湘南国際村センターに向かうのであるが、自宅から30分くらいで着いてしまう。今回は連れ合いのスミさんもお招きいただき、ツインの部屋なので、久しぶりに旅行気分を味わう。その後、美味しい夕食をいただき、午後7時から講演である。
清水ヶ丘教会の壮年会から修養会の講師依頼をいただいたのは7月の半ば頃である。どのような主題で開催するのかと尋ねる。特に決めてはいないが、「主に従う者の生活」との内容で学びたいと言われ、「祈っているか」、「聖書を呼んでいるか」、「証をしたことがあるか」等を話題にしたいと言われたのである。それらの内容をお知らせいただいたので、「主の道を生きるために」(仏教・イスラム教を垣間見つつ)と題してお話することにした。そのため仏教、イスラム教、そしてキリスト教について五回ずつ垣間見たことをブログで公開する。イスラム教はイスラームと言わなければならないこと、イスラーム全体がアッラーの教えに生きることを示され、個人の救済ではなく、イスラーム全体の拡張を示されたのである。個人ではなく全体の一人であるということである。全体の中の一員として戒律を守って生きるのである。仏教は、ゴータマ・ブッダの教えが基点になり、その教えを広める弟子たちの修業は並々ならぬものであった。戒律を守り、悟りに達する高僧達であるが、一般民衆はついていけない。浄土思想が発展することにより、南無阿弥陀仏と念仏をとなえれば浄土へと導かれると教えたのが法然である。あるいは道元により座禅が普及し、瞑想から悟りへと導かれると教える。複雑極まる仏教の教えには民衆はついていけないということである。その中で念仏と座禅が民衆に浸透したのである。
キリスト教を仏教とイスラームと比較するのではなく、改めてキリスト教の信仰を見つめることが講演の趣旨であった。キリスト教の教えの基点は旧約聖書で示される十戒である。十戒を基とする戒律、掟等はトーラーと称するが、全体的には神様の「教え」なのである。結局、旧約聖書の世界はトーラーを守れない人々を示している。そしてイエス・キリストが現れるが、「律法を廃止するためではなく、完成するため」と言われている。表面的に律法を守るのではなく、内面的に守ることを厳しく示している。そして、「愛することは戒めである」と教えたのである。しかし、イエス・キリストが「愛は戒め」と言われたとき、もはや戒律となり、守れなくなるのである。戒めから解放するために、イエス・キリストは十字架にお架りになったのである。キリスト教イエス・キリストの十字架を仰ぎ見ることがすべてである。これは戒律ではなく、神様の恵みの導きなのである。
以上のような内容でお話する。講演時間は1時間なので、15回のブログの内容をお話するのは、駆け足でしなければならない。そのため早口でお話をしてしまう。新幹線みたいでしたとの感想をいただく。しかし、ブログに書いていることは皆さんにも配布しているので、改めて読んで下さればご理解いただけると思う。
この湘南国際村センターは何回か利用している。神奈川教区の総会でも利用したことがあるし、いくつかの研修会でも利用している。牧師として在任中は毎年のように修養会を開催していた。大塚平安教会時代も郊外に出掛けたりしている。箱根、湯河原等温泉地が近いので、楽しい集いとなる。しかし、毎年郊外に出掛けるのは大変なので、教会を会場にすることと隔年にしたのである。また、大塚平安教会では「修養会」との名称は古風であり、「学びと交わりの集い」として開催するようになる。私としては「修養会」の方が重みがあると思っている。
隠退した今、もはや修養会なる集いに参加することはないので、この度の清水ヶ丘教会壮年会の修養会にお招きいただいたことを喜び、感謝している。今回のブログの題を「忙中に寸暇を得る」としているが、修養会の翌日は「神の庭・サンフォーレ」の礼拝担当で秦野に赴く。午後からは横浜市立大学エクステンション講座を受講する。ゆっくり机に向かう時間がない。今日はようやくパソコンに向かうことができた。しかし、今日の夕刻には知人からお勧めいただいたチャリティーコンサートに連れ合いのスミさんと錦糸町まで行かなければならない。まさに今日の午前中は「忙中に寸暇を得る」ひとときである。しかし、通常は「閑暇に寸忙あり」の生活であるのだが。



修養会で賛美をささげる皆さん。



湘南国際村センターのたたずまい。