鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<183>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<183>
2013年9月11日「信仰の世界を垣間見る(二)3 」


聖書の言葉
あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいるあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。
ヨシュア記24章14-15節)



 日本の仏教の礎を築いたのは最澄であり空海であった。二人とも遣唐使として中国に渡り、それぞれ教えを得て帰国するのであるが、その教えを基として独自の信仰を築いて行くのである。だから日本の仏教と言わなければならないのである。
 最澄は766年に滋賀県大津市に生まれる。19歳の時に東大寺戒壇院で戒律を授かり、国が認める出家僧となる。戒壇院とは僧侶となる資格を授ける場所である。神学校とも言えるのであろう。しかし、当時の南都六宗と言われる都の仏教は華やかな表舞台で絢爛たる花を咲かせていたと言われる。そのため、真に道を求める者の多くは山林に道場を求めたと言われる。最澄もその一人で、僧侶となって間もなく比叡山に登り、草庵で修行することになる。その草庵が今日の延暦寺根本中堂と言われる。最澄遣唐使として中国に渡ったとき、天台山で教えを授かり、延暦寺を拠点として日本天台宗を確立したのである。その中心は法華経である。最澄はその延暦寺戒壇を授けることができるように、国に申請する。戒壇は僧侶の資格を与えるということである。しかし、これに対しては南都六宗の旧仏教側から猛反対を受ける。しかし、最澄の没後7日目に公認されるのである。今までは東大寺のみの戒壇であったが、比叡山延暦寺にても僧侶の資格を得ることができるようになったのである。後の法然親鸞栄西道元日蓮等はいずれも比叡山で修行し、それぞれ独自の信仰を得て行くのである。
 同じ時に遣唐使として中国渡った空海は、真言密教を日本にもたらした人と言われる。密教ブッダの教えを基としているが、呪術儀礼を取り入れた信仰になる。呪術儀礼はインドではバラモン教ヒンドゥー教が行っており、仏教においても呪術的な信仰が取り入れられて行ったのである。空海は774年に香川県善通寺市で生まれる。弘法大師と言われるので、四国巡礼の人々が「同行二人」(弘法大師が共に歩いてくれるという)信仰を基として、遺跡八十八か所の霊場巡りの遍路をするのである。18歳で修行者と出会い、山林修行へと身を投じる。その時、密教の一部に触れることになる。最澄と共に遣唐使として中国に渡ったとき、密教を求め、ついに密教の秘法を授かったと言われる。そして、膨大な仏典や法具を携えて帰国するのである。そして空海密教を基とした真言宗を開き、国家のためにも活躍したと言われる。空海は京都の東寺を授かるが、高野山金剛峯寺も本山として信仰を広めて行く。弘法大師とも言われる空海は、即身成仏を教える。人間は現生に生きている間にさとりを開き、生きているこの身に即して成仏できると教えたのである。このあたりはイエス・キリストが教えた神の国を生きることに通じる。神の国は死んで彼方の世界ではなく、生きている今において神の国にいることをイエス・キリストは教えている。
 最澄遣唐使として中国に渡ったとき、密教を学んでいる。しかし、その学び方は浅い。そこで帰国してから空海密教を学ぶために本を借りている。しかし、ある程度の交流が続くが、空海最澄に本を貸すのを断るのである。密教は文字で学ぶものではなく、体で会得するものであると言う。さらに最澄の弟子が山をおりて空海の弟子になってしまう事件も起きる。こうして最澄空海はそれぞれの信仰を広めて行く。最澄比叡山において天台宗を、空海高野山において真言宗を広めて行く。最澄空海平安時代の仏教を確立していくが、伝統的な奈良仏教が衰退していくのもこの時代である。そして、次の時代は鎌倉仏教の時代になる。法然栄西親鸞道元日蓮、一遍等がそれぞれの信仰を民衆に広めて行ったのである。