鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<182>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<182>
2013年9月10日「信仰の世界を垣間見る(二)2 」


聖書の言葉
これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界はその書かれた書物を収めきれないであろう。
ヨハネによる福音書21章24-25節)




 仏教の起源は紀元前5、6世紀、ゴータマ・ブッダの「さとり」から始まる。その「さとり」は「中道」であり、「八正道」を実践することで「さとり、解脱」に至るとブッダは示したのである。もう少しブッダの切り開いた「さとり」の世界を見ておこう。まず「苦」について教えている。この世は「苦」であると言い、「苦」を見つめることで「さとり」へと導かれるということである。「無常」を理解すること。すべてのものが移り変わって行くのであり、変化を受け入れ、自分自身変化しながら生きるということである。「無我」は自分にこだわらない生き方を教えている。欲望から解放されることである。その他、「因果法則と縁起」、「空」、「戒律」、「慈悲」、「業」、「輪廻」、「宇宙観」、「地獄と極楽」等が教えられている。いずれも自分を超えて「さとり」に至ることである。もともとブッダは若い頃から、人間が老い、病み、死ぬ姿を見て、自分のこととして悩んだのである。そのような人間の苦しみから「さとり」を開き、生きる希望を与えたと言える。こうしてインドで起きた仏教は各地に伝播していく。しかし、インドでは13世紀ころには仏教は消滅してしまうのである。しかし、仏教はチベットスリランカベトナム、中国、朝鮮半島、日本にも広がって行くのである。3世紀頃には仏教は中国で大きく開花したと言われる。
日本に仏教が伝えられ、発展するのは、その中国によるところが大きい。最初に仏教が朝鮮半島から伝わるのは552年のこととされている。百済聖明王から釈迦如来の金銅像一体と経典などが欽明天皇へ贈られる。このことをめぐり、古来の神を奉じる物部氏を中心とした排仏派と、渡来人の末裔である蘇我氏を中心とする崇仏派で氏族の争いが起きるが、崇仏派の勝利を収めることになる。その後、仏教が公認されるのは594年で、聖徳太子の時代である。聖徳太子は摂政の職にあり、政治の中心を司っていた。積極的に仏教を導入して行ったのである。仏教思想を理念として憲法を制定している。このような働きが、聖徳太子を日本仏教の祖とする人もいる。たとえば、親鸞聖徳太子を信仰の対象にしている。親鸞は叡山で修行していたが、29歳の時に山を降り、法然の弟子となる。そして、聖徳太子の創建と信じられていた京都の六角堂に百日間こもったとき、聖徳太子からお告げを受けたと言われる。
その後、日本の仏教は国家の擁護のもとに発展していくが、当初は中国から伝わる諸宗派である。奈良時代南都六宗(倶舎、成実、律、三論、法相、華厳各宗)が盛んになる。そして、いろいろな宗派と共に仏教の経典が入ってくる。経典は膨大であると言われる。キリスト教では聖書が根底になり、イスラームではコーランが中心となっている。それに対して仏教の経典は膨大であると言われているが、実際に触れていないので分からない。マホメットが信仰を書き残していないと同じように、ブッダも「さとり」の教えを書き残してはいない。それはまたイエス・キリストも同じである。弟子達に教えたものである。ブッダは80歳で亡くなるが、その後、弟子たちがブッダの教えを収集し、更に弟子達の教えも加えられて膨大な経典になって行ったようである。従って、現代の仏教諸宗派は、その中で一つの経典を中心にしているのである。日本の仏教は、当初は政治の中で展開し、一般民衆には広められなかった。しかし、そういう中で民衆へと広めて行ったのが最澄であり、空海であったのである。そして、彼らにより日本の仏教が広められて行くことになる。