鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <128>

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<128>
2012年8月2日 「一つの体とせられ」 


聖書の言葉
実に、キリストは私達の平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意と言う隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
(エフェソの信徒への手紙2章14-16節)



8月を迎えた。今までも猛暑が続いているが、まだ8月に入ったばかりであり、これからも暑さが続くのであろう。この8月は暑さもさることながら何よりも平和を祈る月である。8月6日に広島に、8月9日に長崎に原爆が投下され、多くの犠牲者が出る。もはや戦争はできないとして敗戦を宣言したのは8月15日であった。そのため、8月は平和を祈る時になっている。平和を祈ることでは、去る6月23日に沖縄全戦没者追悼式が行われる。悲惨な沖縄戦から67年目を迎えており、その時点で日本は敗戦を宣言しなければならなかった。結局、原爆投下で敗戦となったのである。
 歴史を読むとき、歴史は常に戦争を繰り返している。自国が生き残るためであり、資源の確保と領土の拡張が生き伸びる根源であると信じていたのである。その戦争が67年前まで続いていたのだから、決して忘れてはならないことなのである。しかし、今の時代、日本が戦争をしていたことなど知らない世代になっており、再び戦争が起きる懸念さえあるのである。ここは戦争体験者が、声を大にして戦争の悲惨、無益であるかを叫ばなければならないのである。
 私の戦争体験は小学校入学前であった。もともと生まれは横須賀市浦郷町であるが、すぐ近くに追浜飛行場があった。戦争が激しくなるに従い付近の住民は強制的に転居させられた。それで転居したのが横浜市金沢区六浦にある現在の場所である。私が4歳の頃である。その2年後に敗戦となるのである。転居した場所は里山に囲まれている。その山に防空壕を掘り、空襲時には避難していたのである。もっともこの界隈は空襲を受けたことがない。空襲警報が鳴る度に防空壕へ一応避難するが、ここには爆撃がないと思っている人が多く、一時は避難するものの、すぐに出て来て空を見上げるのであった。アメリカの戦闘爆撃機が横浜、東京方面に編隊を組んで飛んで行く様をいつも見ていたのである。夜ともなれば、横浜の市街地方面の空が赤くなっている光景が忘れられない。まだ子供であったので、戦争の体験を持たない。いわゆる竹やり訓練、防火訓練等が行われたのであろうが、目の当たりにしたわけではない。そういう意味では、転居した場所で、比較的平穏に過ごしていたのであろう。
 その頃、1944年6月に政府は学童疎開を決め、小学校3年生以上は強制的に地方農村部に疎開させられる。その後は1、2年生も疎開させられたのであった。私の二歳年上の兄は2年生であったが、6年生であった三番目の姉と共に神奈川県山北方面に疎開したのである。日本の敗戦と共に帰ってくるのであるが、一年近くは疎開していたのであろう。まだ小学校2年生であり、悲しみを味わいながらの疎開生活であったと思う。1945年に敗戦となり、その翌年の4月には、私は1年生に入学する。兄は3年生になっていたが、疎開から帰ってから体調が良くなく、はっきり言えば栄養失調であったのである。麻疹となり、肺炎となり、若くして命を落とすことになるのである。私の戦争体験としての悲しみは兄を亡くしたことである。戦争により兄を失ったと思っているのである。残念ながら兄の思いではあまりない。兄が麻疹になったとき、私も連鎖してなったので、枕を並べて寝ていたことが思い出される。衰弱した兄に、両親はどこからかバナナを得て来て兄に与えていた。しかし、わずかなバナナは私には与えられなかった。与えられなかったので泣いていた自分は覚えている。もう一つの思い出は、小学校に入学して、校庭の隅で佇んでいる私に、手のひらを飛行機のようにして、私の頭をかすめて行った兄の思い出がある。それくらいしか思い出されないのが残念である。




我が家の昔の家。



兄・光政。小学校3年生のときに亡くなる。



 里山に囲まれている我が家は、まさに谷間の家であった。父は里山の中腹を開墾しては畑を作り、農作物の収穫を得ていた。戦後の食糧不足の中で、随分と不足を補ったようである。隣近所の人にも差し上げていたので喜ばれていた。戦争中の食事と言えば、サツマイモやカボチャ、トウモロコシ等の代用食であった。次第にスイトンを食べるようになり、麦飯ご飯になって行くのである。家計を助けるためにも、小学生ながら里山にながいもを堀りに行ったことが思い出される。そのながいもでとろろ麦飯ご飯が作られ、今でもその味が忘れられない。このとろろ麦飯御飯は、今でも一流料理店で喜ばれているのである。
 今ではスイトンにしてもとろろ麦飯ご飯にしても、なかなか出会えない食べ物になってしまった。戦争中の食糧不足を思い出しながら、今では高価なとろろ麦飯ご飯を食べたいと思っている。戦争の恐ろしさ、悲惨をかみしめるためにも。