鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<170>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<170>
2013年8月12日「平和を祈るこの時に 2」


聖書の言葉
それで、このキリストによってわたしたちは両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。
(エフェソの信徒への手紙2章18節)



 前回は日本の戦争中、学童疎開をさせられた私の姉と兄の手紙を紹介した。小学校6年生の姉・朝子、3年生の兄・光政が、戦争が激しくなった1945年、昭和20年の6月頃から9月頃まで、他の子供たちと共に神奈川県の松田に学童疎開をさせられる。三ヶ月間、親と離れ、家族と離れて過ごした心情を綴った手紙を、姉の朝子が保存していた。その朝子が召天することにより、遺品として出てきたのである。家族が二人に送った手紙、二人から家族に送って来た手紙、本当に貴重なものである。これらの手紙をすべてパソコンに打ち込み、まとめておくことにしたのである。前回は二人の手紙を紹介したが、今回は家族から二人に送った手紙を紹介しておく。戦争中、戦争に勝つことを信じて、また対戦の米英に対しては「にくい」とまで記している心情は、当時の国民の気持ちなのである。ただ国の方針を信じて、戦争に協力し、戦火を必死に生きていた人々を示されるのである。


みっちゃんへ
光政さん、元氣なおたよりありがとうございました。家中みんな元氣に働いて居ります。世界一のきれいなふじさんが見えますさうで本當によいところですね。おともだちはみんな元氣ですか。先生やタネチャン、トモちゃんのいひつけをよく守って、しっかり勉強して下さい。にくい米英をたをすまでがまんしてがんばって下さい。それからはがきに書いてあったふじさんのゑは、とても上手にかけました。朝子より上手です。みんながほめています。おからだを十分きをつけて、りっぱなえらい人になるやうおいのりして居ります。サヨウナラ。
美喜子より


朝ちゃんへ
朝ちゃんお手紙有難うございました。朝ちゃんのお手紙がついた時は夕御飯を頂こうと思っている所へ、大庭さんキミちゃんが「清ちゃん、朝ちゃんと光ちゃんから手紙が来たよ」と嬉しさうな顔をして持って来てくれました。ちょうどその時、お父さんお母さんは山の畠へオイモのなへを植えに行っている時でした。伸ちゃんが「僕、母ちゃんに言って来る」と言って行きました。夕飯がすんで皆で手紙を書きました。伸ちゃんが「僕も書くんだ」と言ってお父さんに教えてもらって書きました。朝ちゃん、お手紙を見ただけで、美しい富士山や山のけしきが目に浮かびます。とてもよさそうな所ね。清ちゃんも行きたくなっちゃったわ。家の事は心配しないで先生や保母さんのおっしゃる事をよく聞いて、お國の為に好い子になりませうね。にくい米英を倒すまでは、どんな事があってもがんばりませう。此の次に又おたよりを上げます。お體を大切に。
清子より。


朝子さん、光政さん
お手紙を有難うございます。朝子さん、光政さん、いつもお元氣で、家のもの皆よろこんで居ります。光政さん、いつもゑがおじょうづに出きて居ります。伸治さんがよろこんで居ります。家のことはかわらづごしんぱいなく、がんばって下さい。そして、よく話をしておきますが、もしお國から、どうゆうめいれいがありますかわかりません。その時はおくれをとらづ、どこまでもがんばらなければにりません。そして光政さんをあなたよくきをつけて、なるべく先生に御手をかけぬようおねがいいたします。光政さん、先生のおしへをまもり、おねえさんのゆう事をきくのです。母からおねがいでございます。この手紙はいそぎますから、あとでゆっくりとおたよりします。ニンニクダマはかってありますから、げたとフデイレ、その内おくります。ではさよなら。
母より。


7月21日朝記す
鈴木朝子さん、鈴木光政さん
お手紙ありがとう。朝子も光政もいつも元氣でがんばって勉強して居るとの事、皆が安心して居ります。二人とも手紙と絵が上手になりました。手紙にくはしく又絵を書いて送って呉れるので篠窪に行ったと同じだ皆が言って居ります。食物や飲物に氣を付けて身体を大切にしなさい。水など沢山飲むな氣を付けなさい。一ヶ月以上になり土地に慣れてきたのでお前達も喜んで居る事でせう。皆と仲好く元氣を出して先生様の言う事を好く守って頑張って下さい。家の事は心配するな。家で皆が元氣で働いて居ります。戦争は激しくなってきますが心配はない。米英をゲキメツするのも近い事と思ひます。来た敵を皆打倒して大勝利と成るのです。又色々の都合で居る所が変わっても先生様の言ふ事を守ってさえ居れば少しも心配がないので有るから頑張って下さい。ニンニク玉四つ送りました。薬にして一日に三つ宛飲みなさい。朝子の夏白服、たび、ズッククツ、筆入など、光政の雑誌、トランプ、二人で遊びなさい。役員の人に持たしてやりました。勝利の日迄がん張りなさい。
父・鈴木政次郎


 1945年8月15日、敗戦となる。1946年4月より私は新制小学校の1年生になる。兄は4年生となり、当初は元気に学校に通っていた。私が学校の運動場で、一人でしょんぼり立っていると、兄が手の指を飛行機のようにして、私の頭をかすめて行ったことが、唯一の思い出となっている。そして年月は定かではないが、兄も私も麻疹で寝るようらなる。何故か兄にはバナナが与えられ、私はもらえなかったので、泣き叫んでいたことが思い出される。その時は兄の病状が進行していたのである。その後、兄は肺炎を併発する。そして1947年2月に召天するのである。兄も一人の戦争犠牲者であると思っている。戦争の悲しい物語を多く示されている。二度と起こしてはならない戦争である。戦争を忘れかけている今の日本国民に、戦争への道は何としても阻止しなければならないと示されているのである。



光政から両親に送って来たはがき。
富士山の絵が描かれている。



光政が母に送って来た手紙。