鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

平和を実現し…(東京大空襲の日を覚えつつ )

今日は東京大空襲の日であります。1945年3月10日から62年を経ております。私は横浜市のはずれ、金沢八景の近くに住んでいたので、横浜の空襲も知りません。それにその頃は6歳にもなっていませんでした。私の家族は横須賀市浦郷に住んでいました。私もそこで生まれたのです。横浜生まれといっていますが、正式には横須賀生まれということになります。私が4歳の頃に横浜市金沢区六浦に転居したのでした。横須賀市浦郷には軍の追浜飛行場がありました。1943年(昭和18年)にもなると戦争が激しくなり、飛行場周辺は危ないということで、強制転居ということになったのです。転居した家は小高い山に囲まれて、山間の閑静な場所でした。戦争中であり、転居した人たちは防空壕を掘り、かなり広い穴でした。空襲警報のサイレンが鳴ると、防空頭巾をかぶって壕の中に逃げるのでした。しかし、この界隈は飛行機が通過するだけで戦禍というものはありませんでした。ひとまず壕に入りますが、近所の人たちは再び入り口まで出てきます。空を仰ぐとB29といわれるアメリカの爆撃機が東京・横浜方面に重々しく、飛んでいくのが見えます。「30機はきているな」と大人が言っています。「こりゃあ、大分やられるな」、そんなやり取りが思い出されます。4、5歳頃のことですから、今でもそんなやり取りを覚えているということは、子どもなりに戦争という怖さを捕らえていたのでしょう。夜ともなると横浜方面の空が赤くなっているのも印象に残っています。
横須賀から転居してから2年後に日本の敗戦を迎えます。敗戦の翌年、1946年4月、私は小学校1年生になりました。戦争中に生まれ、日本の敗戦を知っていますが、戦争そのものの悲惨な体験を持ってはいません。しかし、戦争に関わる悲惨な生き方をしてきました。戦争中はお米のご飯なるものはほとんど食べられませんでした。サツマイモやかぼちゃをふかして食べたり、すいとんというものを食べていました。父は山の斜面を開墾して畑を作っていました。サツマイモやいろいろな野菜を作っていましたので、食料が確保できたのでした。麦等も収穫していました。
敗戦を迎える前、戦争が激しくなってきたので、学童疎開がありました。小学生は山北、松田方面に疎開させられたのでした。私はまだ小学生ではありませんでしたので疎開は免れました。3歳上の兄と6歳上の姉が疎開させられたのでした。敗戦となり、姉と兄が帰ってきました。兄は小学校に復帰して一年後に亡くなりました。兄も私も麻疹となり、二人で枕を並べて寝ていましたが、そのうち兄とは別々の部屋になりました。兄は肺炎にもなっていました。栄養も行き届いていません。そのため両親は栄養をつけるため、いろいろと手を尽くしたようです。当時バナナといえば高価な食べ物であり、滋養があるというので兄に食べさせていました。わずかしか手に入らなかったのでしょう。従って、私の口には入りませんでした。布団の中で「バナナ」と叫んでいたことが思い出されます。近所の人が鯉の生血を飲ませると効くと言い、持ってきてくれました。看病しましたが、結局兄は肺炎と栄養失調がもとでしたが、戦争の悲惨のもとに命を失ったともいえるのです。母はなくなった兄の体を拭いていました。裸の体をくまなく拭いていましたが、そのうち兄のお腹を両手の平で、ぴしゃぴしゃとたたきながら、「みっちゃん、どうして死んじゃったの」と泣きながら兄に語りかけるのでした。1年生になっていた私は、その悲しみの母の姿を、傍に立ちながらただ見つめていたのです。
東京大空襲では10万人の死者が出たといわれます。その年の8月には広島、長崎に原子爆弾が投下され多くの人が死にました。直接、戦禍に巻き込まれて死んだ人々は数え切れない人々です。しかし、爆弾で死ななくても、戦争という大きな戦禍で死んでいった人たちも数え切れないのです。戦争は絶対にしてはなりません。真に平和を作り出すために、主イエス・キリストの十字架の導きをいただきましょう。
聖書の言葉
「こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソの信徒への手紙2章15節)