鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

新年の祈り( たゆまず祈りなさいと )

 
 お正月には神社仏閣に大勢の人が初詣に出かけます。その模様をテレビで報じていました。普段は行くことのないお宮さんですが、この時ばかりは出かける心境は、人間の素朴な姿でありましょう。一家安泰、交通安全、無病息災、合格祈願等、幸せに生きることは、誰もが持つ願いでもあります。だから混み合う神社仏閣であっても、とにかく行かなければならないという使命観があるのでしょう。しかし、お願いしていながら、お礼参りに訪れる人は少ないということです。初詣でお祈りしたことが適えられたのに、自分の功績とか運が良かったで済ましてしまうこと、反省しになければならないのではないでしょうか。イエス様のもとに病気の人が10人やってきて、イエス様に癒していただきます。癒されたことを祭司に証明してもらわなければなりません。10人の者は祭司の所に行きました。しかし、御礼に帰ってきたのは1人だけでした。それも聖書の民族ではなく、外国人であったのです。聖書は祈願ばかりで感謝がないことを指摘しているのです。
一年の初めに神仏にお願いするのは、日本人ばかりではなく、外国人もしているようです。キリスト教では1日に新年元旦礼拝をする教会があり、また地区合同の新年礼拝をしているところもあります。初詣とは異なると思いますが、年の初めに礼拝をささげて歩み始めることは祝福の一年となりましょう。大塚平安教会でも何回か会場教会となり、礼拝後はお汁粉をいただいたり、お茶を飲みながら新年の抱負を語り合いました。今年は2日が日曜日ですので、連日の礼拝になります。教会としての新年礼拝になるのです。会場教会は大変になります。それでもお恵みが多くなるでしょう。地区において新年合同礼拝ができるのは都会であるからです。地方の教会は、隣の教会まで一日がかりのところもあり、合同で新年礼拝をすることはできません。年に一度、一日がかりで合同礼拝をするという状況です。
 昔は新年初週祈祷会をしていました。最初の週に家庭を開放してくださる家に集まり、皆さんでお祈りするのです。毎年、三軒のお宅で三日間の集会を開きます。まだお休み中であり、結構集まりますが、多くても15人くらいでした。午前10時から開きますので、終わるのはお昼頃になり、中にはお正月のご馳走を出してくださり、思わぬ新年会になってしまうのでした。たくさん並べられたご馳走をいただきながら、「一つだけ足りないものがありますね」とどなたかが言われたものです。さて、何でしょう。こうして初週祈祷会を開いていましたが、出席する人が少なくなり、ご馳走を出してくださる方も高齢となり、集会の開き方を考えるようになりました。それで導かれたのが、新年礼拝に続いてお祈りをささげるということでした。礼拝後、三人の方に代表してお祈りをささげていただきます。「世界の平和のために」「日本の社会を覚えて」「大塚平安教会と教会員のために」との祈題のもとにお祈りをささげるのでもありました。その後は新年の集いとしてお茶をいただきながら抱負を語り合うのでした。年の初めに心を合わせてお祈りをささげることは、神様のお導きを力強く示されながら歩むことができるのです。先ほどの「感謝」でありますが、教会では感謝の祈祷をささげています。12月の終わりに歳晩祈祷会として、その年のおもな歩みをあげ、それはプリントで用意されており、読み上げては神様のお導きを感謝するのです。願いと感謝、これはセットであることを示されます。
 ところで六浦谷間の集会も今日2日は新年礼拝をささげました。子供たちが昨日から来ていますので、5名の出席ということになりました。礼拝で行う説教は、教会で講壇からお話するということではないので、説教プリントを配布し、説教者もプリントを読んで説教とするのでした。聞いている人達もプリントを見ながらですから、理解できると思います。こちらでは連れ合いのスミさんが代表して新年のお祈りをささげたのでした。
<聖書の言葉>
希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
(ローマの信徒への手紙12章12節)