鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

彼は役立つ者…(少年院での対話)

今日は午後から少年院に行きました。2名の少年との面接です。それぞれ40分くらいの面接でした。いつもは1時間くらいお話するのですが、今日は早めに切り上げました。というのは、少年院は相模原市の橋本にありますが、花粉症の被害が出てきたからです。綾瀬の日々の生活ではそんなに被害を受けていないのですが、少年院に入ったと同時に涙が出、鼻水が出るようになりました。前週の木曜日は八王子にある刑務所に赴きましたが、そこでも涙と鼻水の被害が出ました。教誨をしながら涙を拭き拭きであり、八王子は花粉が多いですねというと、係官が、ここは高尾山に近いものですからというのでした。相模原の橋本も、やはり高尾山らしいです。丹沢にも近いと思いますが、私にとって被害が大きいので高尾山なのでしょう。綾瀬の花粉は丹沢になりますが、日々の生活で慣れてしまっているので被害が出ないのです。高尾山の花粉の方が強力のようです。もっとも、今は登る機会がないのですが、丹沢はいつも登っていたので、丹沢の花粉には免疫が出来ているようです。
周囲の皆さんが花粉で苦しんでおられることについては、心からお見舞いいたします。実は連れ合いのスミさんも花粉で苦しんでいます。靭帯損傷と花粉に攻められ、受難の日々を歩んでいるのです。しかし、おかげさまで靭帯損傷は順調に回復しているようです。病院から借りた松葉杖は返却しました。松葉杖がなくてもゆっくりなら歩けるのです。
数年前に幼稚園の教職員旅行で沖縄を訪れました。3月末でありました。その頃、花粉の被害で参っていたのですが、沖縄に2、3日いることで花粉症が治ってしまいました。沖縄では花粉の被害がないのです。まさに住むなら沖縄です。そして、沖縄から帰りましたら再び花粉で苦しんだということです。
昔、私が育った横浜市金沢区の実家は周囲が小高い山に囲まれていました。その一角は杉林であり、その杉林を通りながら小高い山の上に登っていきました。すぐ裏山が杉林でしたが、花粉症なるものはありませんでした。今はその小高い山の上にまで家が建てられており、昔の面影はまったくありません。杉林も懐かしい思い出になっています。
ところで、今日は少年院に出かけ、2名の少年との面接がありました。一人は横浜市に住んでいた少年です。彼は母親への暴力が続き、母親自身が彼を保護することを求めたのでした。会ってお話ししていると、暴力を振るう少年とは思えないほどです。しかし、なかなか人とは心を通わすことが出来なく、孤独になりがちでもありました。そういう寂しさを拭うかのように母親への暴力となっていたようです。母親が彼を少年院に入れたようなものですが、彼は母親を恨んではいません。その母親は月に一度は面会に来るということでした。2年前に足を挫き、今は足を引きずりながら歩行しています。そのような状況なので働くことも出来ず、生活保護を受けているとのことでした。出院したら親孝行をしたいと言っております。少年院で生活するうちに素直になることが出来たと自分を評価しています。人に対して謝ったことがないのに、今は些細なことでも誤ることが出来るというのです。人とはあまり付き合いがなかったのですが、少年院の中でトランプをしたり将棋をしたりして、人と過ごすことが出来ることになったことを喜んでいました。ここでの訓練が、社会復帰したときには、母親を大事にしながら過ごすことでしょう。もう一人の少年は、昨年12月に20歳になっているので、もはや少年ではありません。彼は万引き、窃盗を繰り返して少年院に入ることになりました。もう、大人なんだから自覚を持たなければならない、自分で言っていました。大人であることは保険、税金、年金等の責任を持ち、更に生活においても自立しなければならないのです。自分ですらすらと大人の心構えを言うのですが、ここにいるということは、思いと現実が異なるからなのです。「先生、大丈夫ですか?」と花粉で涙を拭いている私を気遣ってくれるやさしさは、きっと立ち直ることが出来るでしょう。
聖書の言葉
「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つものとなっています。」(フィレモンへの手紙11節)