鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

囚人を恥と思わず…(神奈川宗教教誨師の集い)

神奈川県内の教誨師の集まりが開かれました。キリスト教教誨師の集まりで、県内には13名がそれぞれの刑務所や少年院で宗教教誨を行っています。カトリック教会が3名、聖公会が2名、日本基督教団が4名、プロテスタント他教派が4名です。この集いは5年くらい前にも開かれ、その後開かれませんでしたので、久しぶりに開くことになったのです。それぞれの刑務所における働きを報告し、キリスト教による教誨を更に深めていくことを話し合いました。
教誨」とは、悪いことをした人に教え諭すことですが、宗教により教えを示すことでもあるのです。政教分離の原則から、刑務所自身が行うことが出来ません。しかし、受刑者は宗教に関わることは必要なことであり、国ではなく篤志において受刑者と関わっていくことなのです。
以下はネットで紹介していることをコピーしておきました。

明治36年、監獄官制の改正により、篤志宗教教誨師は奉任並判任官待遇の官吏として、施設に常駐して教誨を担当するようになる。戦後、憲法の改正により政教が分離され、宗教教誨活動は大きな変化を余儀なくされ、国や矯正施設は、直接宗教教誨の活動に関与することができなくなる。しかし「人格の改善を主要な目的の一とする刑政の場においては、宗教信仰がこの目的達成のために、大きな役割を果たすことは明らかであるから、受刑者に対し、宗教の社会的機能について理解させることは、必要なことといわねばならない」という東京地裁の判決が出て、宗教家が自発的ボランティアとして、開かれた施設の門をくぐることができるようになる。

私は八王子医療刑務所教誨師です。1994年に就任しましたから、今年で13年を経ております。その前は横浜保護観察所の保護司をしていました。牧師として保護司を続けていればよかったのですが、辞任しました。その頃、三人の子ども達は高校生・中学生の頃でした。保護観察中の少年達は月に一度、保護司のもとに来て、生活状況を報告に来るのです。あるとき、報告に来た少年と私の子どもが玄関で出会ってしまいました。中学時代の友達であったのです。少年にとってはいやな思いをもったでしょう。それが辞任の理由でした。更に最初の保護観察面接のときは保護者も同伴します。いろいろと家庭の内情を聞かなければなりません。これも好ましくないと思っていたのです。
保護司を辞めてから数年経ってから、教誨師の人選が求められました。今まで八王子医療刑務所教誨師を勤めていた三一教会牧師の松山幸生先生が辞任することになり、後任を神奈川教区に依頼してきたのです。保護司の経験がある私がよいのではないかと、選任されたのでした。
最初は月に2回の教誨を行っていましたが、忙しさが増してきたので1回の教誨になりました。毎月、第4木曜日に出かけています。宗教教誨は受刑者が自発的に希望するものです。希望者がなければ出かけないのですが、だいたい5、6名の希望者がいますので、毎月出かけているのです。教誨を受ける受刑者の皆さんは、楽しみにこの日を待っています。最初の30分は聖書を輪読し、讃美歌を歌い、聖書のお話をいたします。刑務所内では歌を歌うことはありません。だから間違えても良いから、大きな声で歌うことを勧めています。「いつくみふかき」は皆さんの愛称讃美歌になっており、大きな声で歌うのでした。その後の30分間は質問や感想の時としています。何でも良いからと雑談的になることもあります。その時間も受刑者の皆さんの励みになっているようです。所内ではやたらに雑談が出来ないのです。
キリスト教の教えを聞くうちにも、更生を決意し、社会復帰の時には正しく生きることを願っているのです。この人たちの応援は私自身の喜びであり、使命が深まっているのです。
聖書の言葉
「彼は、わたしをしばしば励まし、わたしが囚人の身であることを恥とも思わず、ローマに着くとわたしを熱心に探し、見つけ出してくれたのです。」(テモテへの手紙<二>1章16節)