鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

主に従う…(牧師像)

「日曜日は教会へ」、今日も皆さんが礼拝に出席され、心を一つにして神様を礼拝しました。特に今週から受難節に入り、主の十字架を仰ぎ見つつの礼拝が深まりました。3月中はずっと受難節礼拝になります。
一般の礼拝は午前10時15分からですが、9時からは子どもの教会が開かれています。約30分は礼拝ですが、その後は分級の時間になります。分級という言い方は昔ながらのもので、幼稚科、小学科、中学科と分かれての集いをもっていました。しかし、今は分かれるほど子ども達が集まりませんので、一つのグループの集いとなっています。今日の分級は、牧師を考えてみようとのことで、牧師の顔を絵に描いたようです。モデルになって子ども達の前に座ったわけではありません。礼拝前なので何かと礼拝の準備をしていました。すると子ども達が入れ替わりに私の顔を見に来るのです。「髪の毛は黒いな」と確認して行ってしまいます。また見に来ました。「ほくろ、ある?」と言いつつしげしげと私の顔を見つめるのでした。こうして思い思いに牧師の顔を描きました。私の書斎の机の上においてありますが、一枚一枚見つめながら、こんな風に牧師を見ているんだと思わせられたのでした。共通していることは眼鏡をかけていること、黒い服を着ていることでした。実際にその通りなので、ちゃんと牧師を見ていると思いました。
一般的にも、牧師のイメージ、あるいは牧師像を持っていることでしょう。牧師ということで、いかにも宗教的な存在と理解している人もあるでしょう。礼拝では私自身ガウンを着用しています。ガウンはこの世の姿を覆う意味もあります。着用によって、御言葉を語る存在の意味もあります。しかし、礼拝が終わると普通の姿になります。日曜日は黒い礼服を着ています。ネクタイも白です。そうなると結婚式に出るような姿ですが、神様の前に出るので、いわゆる晴れ姿になるのです。そして、週日は普通の背広姿ですから、牧師であることについては分からないでしょう。
神学校を卒業して、最初は青山教会の副牧師でした。知人に頼まれて結婚式の司式を青山教会で行うことになりました。式の前に玄関付近で立ち、何かと準備をしていました。式に列席する人が、仲人さんが少し遅れそうなので、牧師さんにお伝えくださいといわれました。その時、背広の上に事務服を羽織っていたので、教会の事務員と思われたのでしょう。仲人さんが遅くなるので、待っている間、讃美歌を練習することにしました。そのときは事務服を脱いで、列席者の前に出ました。先ほど、仲人さんが遅れることを私に告げた人は、何となく怪訝な顔で私を見ていました。やがて仲人さんも到着したので、いよいよ結婚式の始まりです。講壇横の牧師室からガウンをまとい聖壇に進みますと、先ほどの御仁はまたまた怪訝な顔で私を見つめているのでした。教会の事務員、職員、牧師と変って行ったのですから。
牧師の中には週日も黒い服で、首にカラーをつけている人がいます。いかにも聖職者であることが分かります。神奈川教区の牧師研修会があり、一日のプログラムが終わって、一杯やりましょうというわけで町に繰り出したことがありました。首にカラーをつけている牧師も付いてくるのです。本人は別に気にもせず、ビールを飲んでいるのです。こういう席にはカラーを外してくれば良いのに、とささやきあっていました。
いわゆるユニフォームを着ること、その世界に自分をおくことで大切でありましょう。周囲の人もそれなりに接してくれるのです。しかし、ユニフォームを着なくても、自分はその道に生きているのですから、それぞれの状況において自分の使命を深めていくことも大切でありましょう。どのような姿であろうとも、私は牧師であるという証をしたいと思っています。
子ども達の牧師像の中に、80歳や103歳の牧師の絵が描かれていました。いずれも、その年齢になっても若々しい牧師でした。いつまでも若さを保って励みましょう。
聖書の言葉
「あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネによる福音書21章22節)