鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

幼子はたくましく育ち…(回想のお正月)

年末年始は10年前の聖地旅行について記しましたので、正月中のことについては書いていません。1日から5日までは横浜市金沢区にある実家で過ごしました。もっとも、実家といっても親がいるわけでなく、普段は空き家になっています。教会兼自宅で過ごすのではお休みにはなりません。それで気分を変えるためにも実家で過ごしたのでした。
実家で過ごすとき、昔のお正月の過ごし方が走馬灯のように思い出されてきました。年末にはお餅つきをしていました。それは父が元気であった頃です。近くに親族が三軒ありますので、その家の分までつくりますので、結構大掛かりにお餅をついていました。その頃は他の家でもお餅つきをしていました。隣の家は大きな家で、お餅もたくさん突きます。三人が杵を持ち、順番についていきます。タイミングを間違えると大変なことになりますが、三人で突きますから瞬く間に出来上がるのです。私の家は一人が杵でペッタンペッタンとつきますので時間もかかります。その餅つきも父が老いていくと共に行われなくなりました。私が幼稚園の園長に就任してまもなく、幼稚園でもお餅つきをすることになり、私の実家にある臼と杵を持ってきました。その頃は実家ではお餅つきをしなくなっていたのです。幼稚園の餅つきは2年続けましたが、それ以後は、数年後になりますが教会学校が開催することになったのです。教会学校の餅つき大会については1月28日に開催しますので、そのときにまた記しましょう。とにかく、昔実家で使われていた臼と杵が此処で使われていることは喜ばしい限りです。その臼と杵は幼稚園や教会には置くところがないので、さがみ野ホームに置かせていただいております。そしてホームでも使っていただいています。お餅つきと共に年末には父が門松を作ったり、しめ縄をつくったりしていたことも思い出されます。31日には母や姉たちが台所で遅くまでお正月料理を作っていたことも思い出されます。
そして、元日の朝を迎えます。元日の朝は、まず父が起きてお雑煮の支度をします。父が作ることは慣わしになっていました。醤油味で、野菜やなるとが入っている程度です。でも、このお雑煮の味はとてもおいしく、今でも覚えています。お餅が焼けてお雑煮が出来る頃、母や姉たちが起きてきます。食卓を囲み新年の挨拶を行い、なにやら父が挨拶を行い、みんなでお屠蘇をいただくのでした。そして、父が作ったお雑煮を食べるのがお正月の行事です。
朝の遅い食事が終わると、父は神社にお参りに出かけます。金沢八景には瀬戸神社、追浜には雷神社がありますが、どちらに行ったのか定かではありません。あるいは両方の神社に行ったのかもしれません。午後になると親族が新年の挨拶に来ます。父の弟と妹の家族がいます。母は四人姉妹の一番上なので、三人の妹家族も年始にやってくるのでした。従って、元日は人の出入りが多かったことが思い出されます。
こうして人の出入りが多かった我が家ですが、時代と共に人の出入りが途絶えました。父の妹が健在の他は、私の両親も叔父も叔母達もみな亡くなりました。従兄妹達とは新年の挨拶は賀状くらいで行き来はありません。まして、普段は空き家なのですから、お正月といっても誰も来るわけではなく、夫婦でのんびりと過ごしたわけです。それでも連れ合いのスミさんの友達夫婦が遊びに来てくれました。また、私たちの子ども達も来ましたので、結構にぎやかにすごしました。
お正月中は聖地旅行をこのブログに記していましたので、のんびりでもありましたが、瞬く間に過ぎてしまったという印象です。いよいよ明日から幼稚園の第三学期が始まります。この学期は短く、あっという間に終わるので、一日いちにちを丁寧に歩みたいと願っています。
聖書の言葉
「親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」(ルカによる福音書2章39-40節)