隠退牧師の徒然記<396>
隠退牧師の徒然記(2015年2月11日〜)<396>
2016年1月23日「信仰を育む場を支えつつ」
聖書の言葉
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
(ローマの信徒への手紙6章4節)
大塚平安教会在任中、毎年1月第四日曜日は、大塚平安教会においては「餅つき大会」が開かれていた。子どもの教会の主催であるが、教会全体の取り組みとなっている。教会や子どもの教会だけでは、それほどの参加者ではないが、幼稚園にも呼びかけるので、家族の参加があり、総勢200名にもなり、楽しいふれあいの時となる。これだけの人が教会の礼拝に出席してくれたら、と思うのであるが、イベントだけの集まりでもある。しかし、イベントを開いたから、だから参加した人たちが教会に来るようになるという短絡的な理解ではなく、教会が存在し続ける、そこに祝福の場が与えられるということ、基本的に示されていることである。伝道集会を開いて、信者が増えるのかということである。伝道集会により導かれる人もいる。イベントや伝道集会を否定しているのではなく、人々が教会に結びつくきっかけを作り続けることであろう。
1月22日、NHKのクローズアップ現代と言う番組を視聴した。「お坊さんの宅配サーヴィス」とのテーマであった。今は核家族の時代で、家を出た若者たちが、それぞれの場で生活するようになっている。その場合、何の宗教も持たない場合が多い。従って、葬式になった場合、お寺には所属していないので、和尚さんをどうするかが課題になるのである。そういう人たちのために、和尚さんを派遣するというサーヴィス会社ができる。とにかく和尚さんに葬儀をしてもらう。埋葬については公園墓地を取得しているので、もはや和尚さんやお寺は不要なのである。いわゆるお寺には属さない人々が多くなっているのである。お寺にとっては檀家が増えないどころか、高齢化が進むに従い、次第に檀家が減少してくのである。番組では地方の小規模のお寺の現状を報告していた。もはや20軒くらいの檀家でお寺の維持も困難になっているのである。葬式仏教の行き詰まりになっている。そこで、比較的若手のお坊さんたちが、社会の人々と触れ合う取り組みを行っていることも紹介されていた。若手のお坊さんたちが、人生の諸問題についてお話しする会を開いている。時々、紹介されているが、小説家でもあり僧侶でもある瀬戸内寂聴さんとの触れ合いの時には大勢の人々が参加している。お寺でも、いろいろな取り組みをしては社会の人々をお寺に結び付けようとしているのである。
昨年の秋ころ、鈴木家の寺から「報恩講」の寄付金の依頼があった。今まではその依頼には応えなかったが、今回はいくらかの寄付金をささげたのである。両親は浄土真宗の信仰を持っていた。それでいて子どもの三人はキリスト教の信者になったことを理解してくれたし、私が牧師になることも理解してくれたのである。両親が健在なころは、まさにお寺の檀家であったが、もはやいなくなっている鈴木家であるが、まだお寺にはつながっているのである。鈴木家の墓がお寺の墓地にあるからである。いわゆる墓檀家ということなのである。先祖代々、両親、そして長姉も埋葬されている。姉はキリスト教信者であったが、生前、自分の埋葬は両親と共のお墓にして欲しいと述べていた。それで、埋葬にあたりお寺の和尚さんにお願いし、キリスト教の埋葬式をお寺の墓地で行ったのである。和尚さんは鈴木家の子供はキリスト教であることを知っており、息子は牧師であることも知っている。だから、キリスト教の埋葬式を理解してくれたが、讃美歌は歌わないでもらいたいということであった。司式をしてくれた清水ヶ丘教会の島田勝彦牧師は、讃美歌を歌う代わりに一同で詩編を読むことにしたのである。数年前にはお寺も耐震建築として建て直したのであるが、檀家の寄付による。我が家は墓檀家なので、定められた寄付金の半額を負担したのである。このお寺は500軒以上の檀家があり、お寺の維持については心配ないようである。それにしてもお寺が存在している以上、檀家の皆さんはお寺を維持しなければならないのである。墓檀家であるので、護持費として毎年負担している。
昨年の11月に羊子とイグナシオさんが一時帰国して、各地でピアノのコンサートを開いた。それらの日程の合間に、報恩講の寄付金を届けることもあり、彼らを寺とお墓に案内したのである。お墓参りが目的でもある。その時、トイレを借りるため本堂に入らせていただいた。誰もいない本堂の荘厳な佇まいを見ることになる。イグナシオさんにとって、バルセロナの教会の内部はいつも見ていることであるが、仏教のお寺の内部を見学できたことも、日本訪問の収穫になったであろう。
キリスト教の牧師であるが、信仰を育む場としてのお寺の存在を気にかけているのである。もちろん、それぞれの教会の存在を覚えている。前任の大塚平安教会の信仰を育む場としての教会が、皆さんによって支えられることをお祈りしている。そのために、お餅つき大会、バザー等、いろいろなイベントを通して、人々の喜びの場となること、大切なことなのである。バルセロナではカトリック教会で神父さんと共にミサを司ったり、そのうち和尚さんと共に葬儀を司ったりして。
バルセロナの教会で神父さんになったりして。