鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

強く、雄雄しくあれ(成人式)

今日は成人式であります。成人式は1月15日との思いが染み込んでいるので、新聞やテレビを見て、そうか今日は成人式なんだと思ったのでした。成人となった皆さんが、社会の一員として、力強く歩むことをお祈りしています。社会を担う一員になるのですから、義務と責任を果たしつつ歩むことが必要です。
少年院で少年と面接していますが、12月の面接では19歳の少年と面接しました。19歳ですから、少年というより青年です。まもなく成人式を迎えます。その彼と面接したとき、彼はこの少年院を出て社会復帰したら、一生懸命に働いて母親孝行をするといっていました。彼は母親への暴力が重なり、むしろ母親が保護を求めたのです。他人には自分の姿が出せなくて、母親だから、自分の思いをぶっつけてしまうのです。それが暴力となってしまうのです。自分の気持ちを言葉に出来ないで、暴力でしか表せない少年なのでした。少年院で半年以上過ごしていますが、だんだんと訓練されてきたようです。私とも随分と話しました。今まではそれが出来なかったのです。
出院したらもはや成人です。社会に生きるものとして義務と責任を果たしつつ生活しなければならないことを助言しました。成人はまず選挙権が与えられます。それは社会に生きるものとして、この社会を形成する一人になったということなのです。そして成人になったら社会の義務を果たさなければなりません。税金を納めることも義務の一つです。年金に加入して支払うことも義務の一つです。今の若い人たちは、年金を納めても、将来自分たちの時代には受給できなくなると思っている人が多く、そのため年金に加入しない人が多いと聞いています。年金は確かに自分のためですが、むしろ今を生きる高齢者を支えることが年金の精神なのです。やがて、自分が高齢となり、年金生活になったとき、その時代の若者が年金を支払って高齢者支えるのです。成人となるとこのような社会的責任と義務があることを少年にお話しました。
昨日は2007年の最初の礼拝、新年礼拝でした。メッセージは「救いのしるし」との題でお話しました。まず旧約聖書ヨシュア記3章1-17節により、新しく指導者に選任されたヨシュアに対して、モーセと共にいたようにヨシュアと共にいることを示しています。神様はモーセにより人々を導きさせますが、そのため大きなしるしを示すのです。奴隷からの出エジプトの際にもしるしが行われましたが、紅海の水を分けて海の底を歩ませたのでした。今、ヨシュアに指導が委ねられたとき、神様はヨルダン川をせき止めて、人々が川底を歩くことを示されたのでした。救いのしるしはヨシュアを通して、常に人々に示されました。そして、救いのしるしを与えながら神様のお心に生きることを導いたのがヨシュアの働きとなったのでした。神様は人が生きるために救いのしるしを与えているということです。新約聖書ルカによる福音書3章15-22節でした。此処ではバプテスマのヨハネが人々に洗礼を授け、イエス様もまた洗礼を受けていることが記されています。洗礼は罪の許しをいただくために受けるものです。するとイエス様も罪があったのかと思われます。人間は罪ある方向で生きなければならないのです。聖書はそれを原罪といいます。人間には常に自己満足に生き、他者排除の方向があります。創世記にアダムとエバが楽園に住んでいますが、神様は何をしても、何を食べてもよいが、園の中央の木の実を食べてはならないと示します。二人は言われたとおりにしていますが、蛇なる存在が現れ、本当に神がそう言ったのかと誘うのです。二人は改めて中央の木の実を見つめます。おいしそうで、食べれば賢くなると思われ、二人は食べてしまうのです。聖書は此処に人間の原罪があると指摘しています。イエス様も人間として原罪をもつ方向にあるものとして洗礼を受けられました。更にイエス様は十字架の救いを与えました。十字架と洗礼は救いのしるしなのです。成人になった皆さんも救いのしるしを持ちながら生きることを、牧師として願っています。
聖書の言葉
「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄雄しくあれ。」(ヨシュア記1章5節-)