鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

もはや死も悲しみもない(葬儀考)

従姉が亡くなり、逗子の斎場で葬儀が行われたので、私の二人の姉と共に臨みました。従姉は79歳で、既に天に召されている私の長姉と同い年でした。母の妹の子で、昔は親しく行き来していたので、寂しさが募ります。従姉の葬儀は神道でありました。今までも数回、神道の葬儀には臨んでいますので、特別な気持ちは持ちませんが、やはりなんとなく興味がありました。会葬の皆さんはうつむいているようでしたが、私はひたすら神主さんの一挙手一動を見つめていました。仏式の葬儀は和尚さんがお経を読み、鐘や木魚をたたいていますが、神道の葬儀は神主さんの動きに意味があるようです。お払いの動きも意味があるのでしょう。御霊を移す儀式の時には暗闇となり、何が行われているかわかりませんでした。本来はかしわ手なのですが、葬儀はしのび手と言い、手をたたきながらも音のしないかしわ手をいたします。そして、会葬者は玉串をささげて、しのび手を打つのでした。私はそれらは失礼して、しばし黙祷をしてお別れをしたのでした。
仏式にしても神式にしても、会葬者は座っているだけで、良くわからないのが実情でしょう。神式は祝詞の中で簡単に故人の紹介があります。また、仏式でも経を読みながら故人の紹介がされていますが、ややもすると聞きそびれてしまうことがあります。従って、仏式や神式の葬儀では、故人についてはあまり知ることができません。それに対してキリスト教の葬儀は式次第が渡され、その中に故人の略歴や証しが記されており、生前どのように歩まれたかを知ることができます。葬儀では司式の牧師が故人の歩んだ姿を話し、聖書の示しが故人にとってどんなにか力となり、導きであったかを話すのでした。
キリスト教の葬儀は故人を天国へ送る儀式ではなく、葬儀でお別れしつつも、故人が生前歩まれた証しを、生きている者が受け止め、自らの歩みとすることなのです。故人は神様によって天国に召されるのです。人間の所作で天国に入れるというものではありません。神様と本人との関係であり、神様を仰ぎ見つつ人間関係を生きた人が祝福されて天国に迎えられると言うことです。その意味で、キリスト教の葬儀は礼拝でもあるのです。大塚平安教会は葬儀を召天記念礼拝(前夜式・告別式)と称しています。聖書が読まれ、讃美歌が歌われます。讃美歌は故人の愛唱の歌を皆さんで歌うのです。愛唱讃美歌によって、故人の信仰の姿が示されるのです。葬儀の終わりには献花をします。仏式ではお焼香であり、キリスト教の献花はお焼香の変わりだというので、献花をしない葬儀があります。しかし、私はお焼香代わりという意識ではなく、献花をしつつお別れをするのですから、必要なことであると思っています。こうしてキリスト教の葬儀は動きや所作ではなく、言葉による葬儀となります。その言葉は「神様の言」が示されていると言うことです。
葬儀から帰るときに会葬お礼が渡され、あわせて塩も渡されます。この塩は家に帰り、家の中に入る前に、自らの体にふりかけ、けがれを清めると言われます。どうしてけがれているのでしょう。死者の霊が付きまとっていると考えるのでしょうか。仏式でも塩を使わないようにすすめているのが浄土真宗であります。塩を体に吹きかけて清める行為は、死者に対して失礼だとしています。キリスト教では死者から改めて信仰の証しを示されたのであり、むしろ死者のぬくもりを持ちつつ家に帰るのです。
従姉の葬儀により、改めて葬儀の意味を示されました。葬儀は人生の総決算であり、力強く生きた証しが示されるときでありましょう。その意味で自らの葬儀のためにも、今を生きていることが祝福となるような歩みをしたいと願っています。祝福となる人生とは、他者の存在を受け止めて生きるということなのです。

聖書の言葉
「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐいとってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(ヨハネの黙示録21章3-4節)