鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

斎場の葬儀( 葬式の歌を悲しく歌いつつ )

 
 昨日の夕刻から神奈川教区の教職研修会が三浦半島の葉山で開催され、連れ合いのスミさんと共に参加しました。本日の昼食をもって終わるのでありますが、知人の葬儀が入り、私達は朝食をいただいてから先に失礼することになりました。葬儀は大和斎場で行われますので、ひとまず自宅に帰り、喪服に着替えてから大和に赴きました。
 大和斎場は大和市、海老名市、綾瀬市座間市の4市で組織する広域大和斎場組合が組織する斎場です。1979年に大塚平安教会に赴任したころは、今のような施設ではありませんでした。いつごろ改築したのか調べましたが、ネットでは調べることができませんでした。赴任して間もなく改築前の施設で葬儀を行いました。当日は雨の日で、いろいろな面で不便な思いをしたことが思い出されます。それがいつの間にか改築され、斎場としては良い施設になっています。私は一体この斎場で何回の葬儀司式をしたのでしょう。教会員の葬儀、綾瀬ホームやさがみ野ホームの利用者の皆さんの葬儀です。しかし、両ホームの葬儀は、以前はホームの中で葬儀が行われていました。最近はホームでの葬儀は行わなくなり、斎場での葬儀となっていますが、綾瀬市にある斎場で行い、火葬は大和斎場で行うのでした。火葬前式を行いますので、大和斎場の職員の皆さんは私を覚えているのです。いつも葬儀を行ってから先に大和斎場に来ています。すると職員の皆さんが、「ご苦労様です」と言われ、「先生が来られていることは、今度の方はキリスト教ですね」と確認するのでした。仏教式で用意していたこともあり、私の顔を見て、あわてて「キリストだよ、キリスト」と他の職員に呼び掛けていました。今日の葬儀でもお骨上げに当たり、「何かしきたりがありますか、先生」と私に向かって聞くのです。「今日は参列者できているので、先生はこちら」と言ったものです。
 今まで、この斎場でいろいろな方々の葬儀を行いましたが、なかでも忘れられない葬儀がありました。2002年10月に佐竹正道さんの葬儀がこの大和斎場で行われました。教会員であると共に県会議員、綾瀬町長等を歴任された政治家でもあり、綾瀬ホームやさがみ野ホームの施設長をされたり、福祉の世界でも働かれたこともあり、大勢の会葬者がありました。それでこれだけの会葬者が献花をする場合、随分と時間がかかるのではないかと、担当する皆さんが懸念されました。それで開式の時間より20分も早く始めることにしたのでした。問題は、司式は私が担当したのでありますが、式辞は高田彰先生でありました。その高田先生はまだ来ておられないのです。高田先生は開式の時間に合わせと斎場に向かっているのです。結局、高田先生が開式前の時間に到着された時、既に式次第では式辞まで運ばれていました。高田先生は斎場に着いたと思ったら、もう式辞であることで驚かれました。葬儀が終わってから、少しく苦情をいただいたわけです。しかし、開式を早めたことは正解であったようです。献花が始まり、長い時間、会葬者の献花が続くのでした。
 綾瀬ホームやさがみ野ホームの利用者の方の葬儀は綾瀬市内の斎場で行われ、大和斎場では火葬前式を行います。改めて聖書を読み、お祈りをささげ、讃美歌を歌い、最後の献花をします。献花をしながら讃美歌54年版488番の「はるかにあおぎみる」を歌います。そして、火葬の炉に入れるとき、405番の「かみとともにいまして」を歌うのでした。この斎場は音響もよく、讃美歌は美しく反響するようです。この斎場で葬儀をしたときは火葬前式は無く、そのまま火葬に伏しますので、讃美歌を歌いつつお別れをするのでした。
 ときには仏教の葬儀と重なることがありました。あちらも気を使って、こちらでお祈りしているときは鐘等鳴らさないようです。こちらも、あちらの状況を見ながら讃美歌を歌うのでした。死者をお送りする時、偉大なる存在に心を向けながら、人が生きることを示されるのです。
<聖書の言葉>
今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、他の者にこう呼びかけている子供達に似ている。「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった。」(マタイによる福音書11章16節、17節)