鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

厚木基地爆音公害訴訟( その声はますます強くなって )

 
 昨日、知人の葬儀で大和斎場に行きましたが、厚木街道の飛行場の横を通った時、飛行機の練習をしていることを知りました。この辺に近づいて来た時にも、空を飛行機が飛んでいるのを知るのでした。そして、葬儀中にも飛行機の音が聞こえていました。もっとも防音をしているので、そんなに大きくは聞こえませんでした。葬儀が終わり、斎場を出ながら知人と話していましたら、飛行機が上空を飛び、すぐ隣でお話しているのに、全然聞こえないのです。飛行機が飛び去って行って、ようやくお話することができるのでした。それは一時のことで、旋回した飛行機は再びこの上空を飛ぶのです。昨年4月より転居し、静かな生活をしていますが、久しぶりに飛行機の爆音公害に触れるのでした。
 もはや32年前になりますが、私たちが1979年9月に大塚平安教会に赴任した時、飛行機のものすごい音については、ほとんど課題にはしていませんでした。飛行場の近くとも聞いていましたし、飛行機の騒音についても聞いていましたが、今まで経験が無いので、これほどの騒音被害があるとは思ってもいなかったのです。綾瀬に住むようになり、ある程度の日数を経たと思いますが、厚木基地の離着陸訓練が行われ始めたのです。そんなに高くも無い上空をジェット機が、ものすごい音をたてて飛んで行きます。それこそ10分もしないうちに再び上空を飛ぶのです。夜の9時頃まで行われることがあります。水曜日の祈祷会中も飛行機が飛んでいます。祈祷会では順次お祈りしますが、飛行機の爆音で、いつお祈りが終わったのか分からず、アーメンを唱和することもできないのです。日中の被害では、幼稚園がありますので、保育中の飛行訓練は妨げにもなりますし、金曜日の合同礼拝でも、静かに礼拝をするという雰囲気は無くなるのです。月に一度の婦人会・聖書を読む会、幼稚園お母さん達の聖書に親しむ会等、飛行機爆音公害はどんなにか迷惑したことでしょう。
 この爆音公害に対して、周辺の住民により厚木基地爆音防止期成同盟が組織され、第一次厚木基地爆音公害訴訟を起こしていました。そのような中で、キリスト者もこの公害には断固反対し、訴訟を支援することが協議され、1984年7月の神奈川教区総会で「厚木基地爆音公害訴訟を支援する」決議が行われました。そして、支援する会の事務局を大塚平安教会内に置き、支援活動を始めたのであります。皆様から献金をいただき、訴訟で戦っている人々に祈りのしるしを差し上げたのであります。1996年に第1次訴訟は終結しました。訴訟を起こした人々に爆音公害の被害額を提示することになったのでした。それに続いて第2次訴訟が起こされ、私達家族も原告団に名を連ねることになりました。特に私の場合は宗教者の立場で原告団になりましたので、裁判所で陳述を求められました。裁判の席に初めてたたせられたのでありました。爆音が宗教上、どんなにか妨げとなっているか、祈祷会、諸集会、宗教的黙想、幼稚園の礼拝等の陳述を行いました。第2次訴訟も爆音公害が認められ、保障額がおりることになったのでした。第3次も立ちあげられ、裁判闘争が行われています。この厚木基地爆音公害訴訟を支援する会は、昨年の3月をもって会を閉じることにしました。訴訟支援はある程度、達成されたと理解したからであります。
 厚木基地綾瀬市大和市にまたがっています。ここに基地があり、アメリカ軍が使用している限り爆音公害は無くなりません。訴訟は基地をなくすことも含まれていますが、それは認められず、爆音公害の保障のみで終結するのです。根本的なことが解決されない限り、爆音公害は続くのです。沖縄の基地問題があり、日本の全国ある基地問題があります。
 転居してからは飛行機の騒音がいっさい無くなり、毎日静かな生活を喜んでいるのですが、忘れてはならない爆音公害です。改めて祈りを導かれたのでした。
<聖書の言葉>
ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。
ルカによる福音書23章23節)