鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<281>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<281>
2014年8月29日「法と掟と戒めと」


聖書の言葉
イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。
申命記10章12-13節)



 東京メトロ霞が関A1出口から地上に出ると、周辺一帯は官公庁街である。A1出口は裁判所であり、いろいろな車が駐車していた。抗議の垂れ幕を掲げた車が並んでいる。裁判中の事件に関わる車である。それと共にカメラを持った報道人で込み合っているという印象である。8月28日、東京地方裁判所に赴く。支援しているシルバさん家族の裁判を傍聴するためである。シルバさん家族の支援については、これまでも報告している。難民として日本に渡ったシルバさん家族は、ビザがないので強制送還されるところであるが、私が仮滞在の保証人になることで、滞在を許されている。難民申請をしたが、却下されている。それで却下を不服として裁判に訴えたのである。国の判断を取り消す裁判である。難民申請が却下されたとき、最後の手段は裁判に訴えることであり、その裁判が始まったばかりである。今回で二回目の裁判であるが、今回も事務手続きの確認であった。従って、10分もしないで終わってしまう。しかし、確認されたことは、次回の裁判でシルバさんの陳述が行われることであり、いよいよ裁判の本筋に入ったということである。弁護士さんの助言もあり、なるべく多くの傍聴者がいた方が良いということであった。これだけ多くの人がシルバさん家族を支援しているということを、裁判官に知ってもらうことは大切なことであると言われる。そのため、支援委員の小室きよみさんや古屋紘子さんが大塚平安教会の皆さんに傍聴を呼びかけたのである。そのため私を含めて12名の皆さんが傍聴席に座ったのである。地方裁判所の419号法廷の傍聴席はそれほど広くもなく、シルバさん側の傍聴席は、かなり一杯との印象にもなる。
 裁判が終わり、傍聴者の控室で担当してくださっている岩井弁護士さんが、裁判の説明をされる。裁判長の声が小さくて聞こえないという感想に対して、裁判は傍聴者のためではなく、裁判の経過を記録に残すことが目的であり、マイクはそのためのものであると言われる。裁判官と弁護士と被告の国側の事務的手続きのやり取りがあったが、何が話し合われているのか、わからなかったのである。テレビ等で裁判風景の場面が放映されるが、実際は傍聴者向けではなく、裁判の主役の皆さんのやり取りなのである。
 シルバさんの裁判に臨みながら、私自身が陳述したことが思い出されていた。もう20年も昔になるが、厚木基地爆音公害訴訟の原告団の一員になる。1979年に大塚平安教会の牧師に就任したが、赴任前のオリエンテーションでは厚木基地爆音公害については一度も聞いていない。厚木基地飛行場があるのだから、それくらいは考えられることであった。赴任して時を過ごすうちにも飛行機の訓練が行われるようになり、タッチ&ゴーと言われる飛行機の訓練は、絶え間なく爆音に悩まされるのである。そういう状況の中で爆音公害訴訟で戦っている大塚平安教会員の角田敏太郎さんの勧めもあり、厚木基地爆音公害訴訟の原告団に夫婦で名を連ねたのであった。裁判が進められる中で、原告団は私がキリスト教の牧師であり、宗教者の立場であり、また幼稚園園長と言う教育者の立場であるので、陳述することを求めたのであった。予め陳述することを原稿にしているが、弁護士さんからも指摘されないまま陳述したとき、鋭い尋問を被告側から発せられる。陳述では、飛行機が低空飛行をするので、飛行機の操縦者の顔が見えるくらいであると陳述しているのである。これは、それほどまでの低空飛行であることを述べたものである。それに対して、被告側は、本当に顔が見えたかと問うのであった。私には見えたと思っているのであるが。このような法廷では推量、判断では真実とは言えないことになる。その他にもいろいろと細かいことを聞かれる。夜の祈祷会では、その時間に飛行訓練があり、順次お祈りしているうちにも、前の人がいつお祈りを終えたのか、爆音でお祈りが聞こえないことは確かなのである。そのあたりは宗教的活動の損害であることは強調して訴えておいた。幼稚園においても先生のお話しが子供たちに伝わらないことを述べたのであるが、少なくとも幼稚園児が幼稚園にいる時間帯は訓練が行われてなく、飛行訓練は夕刻から夜にかけてであると反論される。しかし、昼間でも飛行訓練する時があるのである。
 今は昔のDNA鑑定の間違いが指摘され、裁判のやり直しが行われている。裁判でも人間の判断であり、何が本当のことなのかわからない。真実を述べあい、真実の結論が導かれることを願っている。聖書には「法と掟と戒め」が共に言われる。これは裁判により、人の善悪を決めるのではなく、そこには悔い改めと新たなる人生を示しているのである。裁判後の人の生き方を示すのが聖書の裁きなのである。



霞が関にある東京地方裁判所