鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<280>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<280>
2014年8月20日「新しがり屋の癖が出て」


聖書の言葉
新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって主は救いの御業を果たされた。主は救いを示し、恵みの御業を諸国の民の目に現し、イスラエルの家に対する、慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人は、わたしたちの神の救いの御業を見た。
詩編98編1-3節)



 時々であるが、所要で電車に乗る。ほとんどの人がと思えるほど、画面を見たり、指を動かしている。携帯電話やスマートフォンの画面とにらめっこしているのである。私自身も携帯電話を持っており、情報を取り入れれば、画面とにらめっこするのであるが、ほとんどしていない。それでもプロ野球の情報などは開いて見たりしているが、ごくたまにである。携帯電話にいろいろな情報を取り入れれば、結構楽しめるようだ。しかし、それも面倒であるということでしていない。携帯電話は電話のためと、あとは万歩計がついているので、その二つの機能しか用いていないのである。人によっては電車の時刻、乗り継ぎ等もすぐに携帯電話で調べている。情報を得るものを持っているので用いたらよいと思っているが、つい面倒であるとの思いが先になる。若い頃は、新しいものにはすぐに対応したものである。
 昔は印刷と言えばガリ版であった。そういう中でワードプロセッサーというものが出始める。すぐさまワープロなるものを導入する。ワープロが次第に進化していき、新しくなればすぐに対応していたのである。そうこうしているうちにパソコンが出始めるのである。やはりすぐさま対応して購入した。ところがワープロの便利さが、さすがの新しがり屋もパソコンは顧みなかったのである。購入したものの半年位は箱に入ったままであった。そして、ようやくパソコンをいじり始めるのである。ワープロがかなり役立っていたので、パソコンへの切り替えは遅くなったことは確かである。しかし、パソコンを使ううちにもワープロよりはるかに便利であることを知るのである。そして文書の印刷はすべてパソコンで行うようになる。ワープロにしてもパソコンにしても、一人牧師が先走っていたが、教会員の皆さんもパソコンを駆使するようになり、教会の文書活動が深まり、盛んになったのである。
 携帯電話にしてもいち早く導入している。最初はポケットベルであった。電話局の営業担当者が社会的にも活躍している人をターゲットに売り込みに来たのである。考えることなく導入する。やはり便利であった。教団の会議があり、会議後は渋谷で食事をすることで、食事処を探して歩いていたらポケットベルが鳴る。急いで自宅に電話する。入院中の笠倉正道君が危篤であるという。急いでタクシーで横浜市立大学病院に駆け付けたのである。そのときは危篤であったが、持ち直したのであった。ポケットベルのありがたさを知ったのであった。そして携帯電話が出始める。これもすぐに対応して購入する。最初の携帯電は携帯どころではない。電話機の受話機を持ち歩くほどの大きさなのである。ポケットにいれるなんてことはできなかった。それが次第に進化し、胸のポケットにも入るほどのハンディーな物になった。どこにいても携帯の連絡があり、落ち着かなくなったことは確かであるが、携帯電話の普及は社会の発展でもあったであろう。そして、携帯電話にいろいろな機能が付くようになり、メールはできるしゲームもできる。情報はすべて携帯電話が取得してくれるのである。このころになると、人生70歳を迎えており、あの新しがり屋の人も、携帯電話の便利さには興味を示さなくなったのである。もう現役を退いたし、情報も必要ないと思っている。携帯電話は電話と万歩計だけで良いと思うようになっているのである。
 そういう取り組みを考えるようになっていた。我が家の三番目の子どもが、最近はipadなるものを持つ様になり、私にも勧めるのである。いろいろな機能があって楽しいというのである。なんか、今更新しいものにとりくむ意欲がなくなっている。時々、かつては新しがり屋であったのに、今は新しいものに意欲を向けない自分を顧みて、脳を働かせるためにも、再び新しがり屋になってみるかと思うようになる。そして、ついに意を決してipadなるものを購入するためauの店に行ったのであった。それがこの日曜日である。まだ三日しかたっていない。いろいろな事務仕事があったりして、なかなかはまらないのであるが、これからは楽しみつつipadの画面をいじることにしよう。



ipadを楽しむようになる。キーボードはかな入力ができるので、別売りを購入する。