鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

刑務所の教誨師( 牢にいる人を訪ねつつ )

 1月21日の日記で八王子医療刑務所には教誨師として関わったことを記しました。関わりだけで内容については割愛しましたので、今日は教誨師時代を振り返っておきましょう。
 「教誨」(きょうかい)とは「教え、諭す」ことであります。「教誨」には一般教誨と宗教教誨があります。一般教誨は道徳や倫理を教えるのですが、刑務官や法務教官が行い、強制的に行われるのです。それに対して宗教教誨があります。宗教をもって受刑者の更生を導くことです。宗教ですから強制ではなく、希望者が宗教教誨を受けるのです。宗教はさまざまありますが、普遍的な宗教に限られます。仏教、キリスト教神道です。仏教にはいろいろな宗派があり、それぞれの僧侶の皆さんが携わっています。キリスト教は牧師、神父が関わり、神道神職と言われる人々が教誨を担っています。刑務所の受刑者は希望する教誨を受けることができるのです。月に一度の教誨は受刑者にとって希望のひとときになっています。
 16年間、教誨師を担いました。前任者からの引き継ぎもなく、暗中模索で教誨を始めました。最初の教誨は5、6名であったと思います。前任者がヒムプレーヤーを置いて行きましたので、讃美歌を歌うときに用いていましたが、どうも調子が悪く、アカベラで歌うようになりました。「いつくしみ深き」や「主よ、み手もて」等、一般にも知られている曲を歌っていましたが、知らない曲でもいつも歌うことにより覚えてくれます。讃美歌を歌い、その後は聖書を輪読しました。すらすら読む人もいますが、読むことが苦手な人が多いようです。それでも一生懸命に聖書というものを読もうとします。その後は聖書のお話をします。お祈りをして讃美歌を歌い、前半の30分が終わります。後半の30分は質問や懇談の時としました。
 多いときは7、8名も希望する時がありますが、2、3名の時もあり、1名の時もありました。だいたい半年か1年くらいで出席しなくなります。出所するか転所するかであります。いつの間にか消えて行くのではなく、中には挨拶をされる人もいました。「近く出所します。次の教誨にはいないと思います。今までありがたいお話をしてくださり、ありがとうございました」と起立して挨拶を述べられるのでありました。ここは医療刑務所であり、刑務所病院なのです。教誨を希望するのは、この刑務所で作業をする受刑者であり、患者ではありません。患者でも歩くことができる人は教誨を受けることができます。ベッドに伏している人への教誨が許されれば良いのですが、病室には行かれないことになっています。歩くことのできる患者も教誨の部屋へとやって来るのです。
 教誨師を始めて2、3年が経た時、クリスマスの集いを企画しました。大塚平安教会には声楽家がおられますので、それらの方と、有志を募り、10名の皆さんで訪問しました。これには周到な計画が必要でした。半年も前から企画書を提出し、訪問する人の名前、年齢、職業も記載して提出しなければなりませんでした。この計画はカトリックの神父さんとも共同で行いました。刑務所の体育館で行われましたが、暖房があまり効かず、寒い思いをしていましたが、ゲームをすることになり、体を動かしたりしましたので、寒さを感じなくなりました。このクリスマスの集いは受刑者の皆さんに大きな喜びを与えたようです。皆で輪になってゲームをすることなど、社会にいるときも経験のない人が多いのです。聖歌を聴き、聖話に励まされ、心から笑うことができたことは、まさにクリスマスのプレゼントでした。クリスマスの集いはこの時だけで、その後は開催できませんでしたが、その後の教誨希望が多く、10名もの人がプロテスタント教誨を希望したのでした。いずれもクリスマスの集いに出た皆さんでした。
 社会にいるとき、思わず犯行におよび刑務所生活をするようになりました。今は更生を誓い、社会復帰を目指しているのです。イエス様の示しが指針となることを願いつつの教誨でした。
<聖書の言葉>
わたしの父に祝福された人達、お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。
(マタイによる福音書25章31節〜)