鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<257>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<257>
2014年5月30日「いろいろなお別れ」


聖書の言葉
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。」
ヨハネによる福音書16章16-24節)



もうかなり時が経っているが、ある葬儀について書きとめておくことにしよう。5月6日、聖蹟桜ヶ丘にある「あいかホール」という斎場に赴く。連れ合いのスミさんの友人である藪下正明さんの葬儀である。スミさんは若い時、明治学院の事務職員として務めること13年である。そういう中で私と出会うのであるが、私達の結婚式には亡くなった連れ合いの友人藪下正明さんと夫人の和代さんご夫妻も出席される。藪下さんは写真を趣味とされていて、結婚式の写真をたくさん写してくださったのであった。私がその友人ご夫婦とお会いしたのはその時だけである。しかし、その後は年賀状だけのお交わりであるが、私達に順次与えられる子ども達を年賀状に印刷しながら、友人ご夫妻にも送っていたのである。友人の夫人和代さんが、毎年の年賀状を楽しみにしていますと賀状に記され、毎年保存していますとのお便りをいただいていた。
その友人、藪下さんご夫妻とお会いしたのは、結婚式だけであると記したのは間違いである。いつの時であったか記憶が定かではないが、亡くなった友人、藪下正明さんの母上がお亡くなりになったとき、その葬儀の司式を私に求められたのである。とにかく連れ合いのスミさんの友人からの依頼ということで引き受けたのであった。それ以来、お会いすることはなかった。職務に追われ、ゆっくりとお会いする時間がなかったと言える。その後は前記したように年賀状のお交わりであったのである。私たちが東京の青山教会、宮城の陸前古川教会、神奈川の大塚平安教会と移動しつつの歩みは年賀状を通してお知らせしていたが、友人ご夫妻も年賀状を通して消息をお知らせくださっていた。その年賀状を毎年読むうちにも、明治学院を退職され、郊外に住むようになり、転居したりの生活を示されていたのである。年賀状だけのお交わりは、電話で話す必要もなく、お互いの健在を認識しながら過ごしていたのである。それが久しぶりにいただく電話は、友人の彼の訃報であった。
葬儀は聖蹟桜ヶ丘の斎場であるというので、京急線の品川駅、山手線の新宿駅京王線聖蹟桜ヶ丘駅の順序で赴く。最近は電車に乗って出歩くことが少なく、緊張しながら電車で向かったのであった。葬儀は「友人葬」であると言われる。宗教によらず、友人が集まってお花をささげ、用意された食事をいただきながら思い出を語り合うというものであった。お母さんの葬儀をキリスト教で行い、司式を私が担当しているので、なんとなくその思いを持ちながら列席したのであった。友人葬なる葬儀は初めてであり、さっぱりしていて良いものだと示されたのであった。仏教であれば分らないお経を忍耐して聞かなければならず、キリスト教であれば故人の良いお証をたくさん聞かされるものである。しかし、友人葬は司会もなく、それぞれが思い出を自然に語るのである。しかし、終わりの時には讃美歌を二曲歌い、お別れとしたのであった。亡くなった友人のお連れ合いから電話があったとき、明治学院というキリスト教の世界で歩んだのであり、最後は讃美歌を歌って送りたいと言われる。それで讃美歌21の493番「いつくしみ深い」と466番「山路こえて」を歌うことにする。そのためその二曲を讃美歌からコピーして持参する。更にヒムプレーヤーを所持しているので持参する。友人葬では家族と親族は別室で会食をしていたが、お別れの讃美歌には一緒に歌うことになる。そんなに多くはない列席者であるが、皆さんは声を大にして歌われていたと思う。
斎場には、彼は写真家であり、また絵を描くことが趣味でもあったので、立派な作品が飾られていた。ひと目見れば、本人の人柄が示される作品は良いものだ。それに対して、文章をたくさん残しているものの、どれを読めば本人の人柄が示されるのか、ということでは迷ってしまうので、困りものだと思うのであるが…。



友人葬という葬儀に列席する。



彼が描いた絵画を鑑賞する。