鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

有益な聖書(聖書研究の歩み)

今日は水曜日、夜の集会、水曜集会が開かれました。午後7時30分から始まります。水曜集会は、正式には聖書研究会と祈祷会です。続けて集会を開きますので、水曜集会と称するようになりました。最初の30分は聖書研究です。研究と言えば重くなりますが、牧師が聖書の解説と奨励を交えてお話しするのです。今日は旧約聖書の「哀歌」5章でした。哀歌は字のように、悲しみの歌です。
「主よ、あなたはとこしえにいまし
代々に続く御座にいます方。
なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ
果てしなく見捨てておかれるのですか。
主よ、御もとに立ち帰らせてください。
わたしたちは立ち帰ります。
わたしたちの日々を新しくして
昔のようにしてください。」
(哀歌5章19-21節)
哀歌の時代は今からざっと2,500年も前です。聖書の人々はバビロンの国に滅ぼされ、多くの人々が捕虜として連れて行かれました。都は荒廃し、囚われの悲しみの中に生きています。
「なにゆえ、独りで座っているのか。人にあふれていたこの都が。」と哀歌は最初に歌うのです。「なにゆえ」はへブル語で「エーカー」で、「どうして?」「どのように?」の意味合いです。この悲しみは、何故なのですか、と歌っているのです。しかし、もともとこの悲しみが現実となるのは、人々が神様のお心ではなく、人の思いで立ち回った結果でもあるのです。当時の大国、バビロンやエジプトの狭間にあり、生きのびるためにどちらに付くか、指導者達は悩んでいました。エレミヤという預言者は、バビロンに降伏を勧めます。降伏したほうが生きのびる道があると示したのでした。しかし、指導者達はエジプトに助けを求める道を取ろうとします。結局、バビロンに滅ぼされてしまうのです。「エーカー」と言いつつ嘆きますが、この嘆きは自分達の責任としての嘆きなのです。哀歌は「果てしなく見捨てておかれるのですか」と歌いつつ、今の気持ちを率直に神様に向けているということです。例えば、今の状況が苦しくても、そのまま神様に心を向けることが大切であることを哀歌は示しています。主イエス・キリストは十字架に掛けられて死んでいくとき、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれました。絶望であっても神様に向かっているのです。
聖書研究では旧約聖書新約聖書を隔週に読んでいます。1979年に私が大塚平安教会に就任したとき、聖書研究は最初から取り組むことにし、毎週旧約聖書を読み、学んでいました。一回につき一章ですから、「創世記」は50章であり、一年がかりで読みました。毎週旧約聖書を読んでいたのでは、新約聖書が学べないということで、1983年6月から新約聖書を読むことにしました。旧約は最初からでしたので、新約は最後の「ヨハネの黙示録」から読み始めました。このときから隔週に新約と旧約を読むようになったのです。このように聖書を読みすすめているとき、1994年度、1995年度の2年間、古旗誠牧師が大塚平安教会の担任教師となりました。主日礼拝の説教は月に一度でしたが、水曜集会の担当は隔週にしてもらいました。古旗牧師は新約聖書のコリントの信徒への手紙を研究するようになりましたので、私は再び旧約聖書のお話になりました。そして、古旗牧師は退任した頃は使徒言行録でしたので、そのまま私が引き継ぎ、ヨハネの黙示録まで読み、再び最初のマタイによる福音書を読むようになり、今はルカによる福音書を読んでいます。聖書は汲めど尽きぬ泉であり、人生を導く基であります。
聖書の言葉
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(テモテへの手紙<二>3章16節)