鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

聖書( 有益な書物であると )

 
 昨日は蔵書の取り扱いについて記しましたが、聖書に向かうことも触れておきましょう。私が最初に向かった聖書は、その頃は日本聖書協会の文語訳聖書でした。1954年に口語訳新約聖書が、1955年に口語訳旧約聖書が出版されたのは、私が中学生の時でした。従って、最初に聖書に出会うのは文語訳聖書であったということです。その頃は清水ヶ丘教会に通っていた時代であり、その新約聖書を姉の婚約者からプレゼントされたのです。中学・高校生時代に愛用致しました。その口語訳聖書に養われ、その聖書に向かいつつ成長したのです。1962年に日本聖書神学校に入学しましたが、その時に購入した引証付旧新約聖書を神学生時代、教会の牧師になっても用いていました。今、革の聖書カバーから出してみましたが、ぼろぼろになっている聖書を懐かしく手にしたのでした。その後、購入日は不明ですが、もう少し大きい引証付旧新約聖書を使用するようになったのです。
新共同訳聖書が出版されるのは1987年でありました。大塚平安教会に在任中であり、教会は新共同訳聖書が発行されると同時に、口語訳聖書から新共同訳聖書に切り替えたのでした。今使用している新共同訳聖書は引証付聖書が出版された1993年に、出版と同時に購入したものです。18年間使用していますが、大分くたびれてきています。創世記1章の頁が擦り切れたりしていますので、連れ合いのスミさんがその部分のコピーしたものを挟んでくれています。書き込みもあり、大切な部分には線が引かれ、御言葉に向かう時にはこの聖書以外にはありません。この聖書がメッセージを導いてくれると思うと、大切に取り扱っているのでした。
神学生時代、東京神学大学の教授であった熊野義孝先生が日本聖書神学校の講師として教鞭をとっておられました。その先生の授業のひとこまが忘れられません。先生は教義学を教えてくださっていたのですが、ある時、聖書の取り扱いについてお話されました。聖書は神様の御心が示されているのであるから、決しておろそかに扱ってはいけませんということでした。例えば、聖書を机の上に置く場合、投げすてるような置き方はいけませんと言われ、実際にその所作をして見せるのでした。こんな取り扱いは神様に申し訳ないし、御言葉に対する姿勢が問われると言われたのです。私はその熊野義孝先生の教義学は覚えていないのですが、聖書に対する素朴な思いを、あの大先生から教えられたと思っています。聖書は神様の御心なのだから、おろそかに扱ってはならないということです。先生の授業は覚えてないというより、先生は大変な早口でお話されるので、ノートが取れないという状況でした。
そのような思いがあるものですから、聖書の取り扱いには苦労しているというわけです。今まで使用した聖書は処分することなど毛頭ありません。一番困ったのは、教会において口語訳聖書から新共同訳聖書に切り替えたときでした。教会には備付け用の聖書をおいていたからです。旧新約聖書ですから、一冊でも分厚いのです。口語訳聖書を使用している教会に寄付することも考えられましたが、聖書には教会の刻印が刻まれており、これでは申し訳ないと思うのです。それで、口語訳聖書はひとまず段ボール箱に納めて戸棚にしまっておきました。これは教会学校でも同じであり、子ども用の備付け聖書は段ボール箱に収納しているのです。割り切って、これは本であるからと処分できないのではないでしょうか。今は使わなくなったにしても、口語訳聖書によって養われて来たのですから。
今、日本聖書協会は新しい時代の聖書を出版するために、準備を始めています。そのためにいろいろな情報、学者の意見を集約しているのです。新しい聖書の方向性が決まり次第、翻訳作業が始まることになっています。文語訳聖書、口語訳聖書、新共同訳聖書、これらの聖書を共に開きながら御言葉を示されているのです。
<聖書の言葉>
この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵をあなたに与えます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、義に導く訓練をするうえに有益です。
(テモテへの手紙<二>3章15節、16節)