鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

書かれた書物( まだたくさんあると )

 
 このブログで紹介しようと思った本を捜したのですが、見当たりませんので止めにしましたが、本棚を見つめるうちに、本のいろいろな思いが湧いてきました。引越しをして、一番困ったことは本の整理でした。大塚平安教会時代は牧師室に書棚があり、そこに収納していましたが、それでも二列にして収納しなければなりませんでした。そして、当分は読まないであろう本は六浦の自宅に運んでおきました。新日本古典文学全集、折口信夫全集、三木清全集、岩波書店の哲学全集、文学全集、世界歴史全集、日本歴史全集、ドストエフスキー全集、山本周五郎全集等です。その他は牧師室の書棚に二列、三列にもして置いていたのです。さて、引越しをしたとき、本の始末をどうするかが課題でした。六浦の書斎には書棚を三台おきましたが、それだけでは収納できません。階下の廊下や居室にも三台の書棚をおきましたが、まだまだです。書棚のカタログを見ていましたら、押し入れに収納できるものがありました。六台購入して収納したのでした。それでもまだまだ段ボールに入れたままの本があるのです。置いていても読まない本は処分すれば良いのですが、私達の年代は簡単には手放さないのです。
 神学生の時代から、また牧師になっても、本を集めることは、いつも心がけていました。牧師はいろいろな本を読まなければならないし、教会で牧会するようになったとき、所有する本が頼りであることは、先輩たちも口をそろえて言ったものです。連れ合いのスミさんと結婚しましたが、結婚してもスミさんは明治学院の事務職員として勤めていました。その頃、聖書の注解書であるインタープリターズバイブルが発行されていた時であり、明治学院の購買部に注文してくれたのです。発行される度に、かなり重い書籍なのですが、「出たわよ」と言っては持ち帰るのでした。旧約6巻、新約6巻をついに買い求めたとき、今度はインタープリターズバイブル・ディクショナリーが発行されることになり、それも5巻のセットを求めることができました。英語版でありますから、紐解いて参考にするには時間が必要です。時には開いていましたが、書棚に眠ることが多かったようです。この書物は今でも私の目の前の書棚に納めています。連れ合いのスミさんが買ってくれた大切な注解書であり、辞書であるからです。
 その他の本も何らかの思い出があり、読まないからと言って処分するわけにはいきません。今までは忙しくて開くこともなかった本を、今はしみじみと開いています。その一つは、小学館発行の「国語大辞典」です。全部で10巻もあるのですが、置く場所がないので、手の届く床に並べています。言葉の意味を知るばかりではなく、いろいろな言葉があることを知ることができるのです。時々、このブログでもあまり使われない言葉を用いたりしていますが、この大辞典によるのです。言葉遊びと言いましょうか。日本人でありながら、知らない言葉、知らない文字がはるかに多いことを知るのです。何もすることがない時には、この大辞典を開いては、いろいろな言葉を示されています。
 今は本が無くてもネットで検索すると、事足りるで、その意味でも事典類が不要になりつつありますが、しかし本の良さはネットを超えるでしょう。本は著者の息遣いが伝わってきます。作者の思いや喜怒哀楽を共有することもできるのです。批判的に読む本もありますが。本は単に紙を束ねたものではなく、著者という存在がいるのです。発行に至るまでの努力、苦労を思います。教会では週報を発行していますが、その週報がおろそかにされていると悲しくなります。時間を割いて、思いを込めて作成したからです。週報への思いは本にも通じています。
 書棚の六割はキリスト教関係の書物です。日本のキリスト教は人口に対して1%しかいないのに、キリスト教出版関係は次々に本を出しています。主イエス・キリストを見つめれば見つめるほど執筆が導かれるのでしょう。
<聖書の言葉>
エスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。
ヨハネによる福音書21章25節)