鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

忠実な良い僕(タレント考)

今日は八王子医療刑務所へ赴きました。月に一度、第四木曜日の午後に行っていますが、今月は第五の木曜日になりました。前週は23日でお休みの日であり、バザーが開催されたからでした。11月26日からの一週間は終末を覚えることについては、26日の日記に記していますので参照してください。それで、本日の刑務所における教誨は終末に関してお話しました。
マタイによる福音書25章にはイエス様による三つの終末に関するたとえ話が記されています。「十人のおとめ」のたとえ、「タラントン」のたとえ、「すべての民族を裁く」たとえ話です。「十人のおとめ」のたとえ話は、結婚式に関わっています。十人のおとめが花婿さんを待っています。花婿さんは花嫁さんを迎えに来ますが、迎えに来たとき、そこでお祝いの宴が開かれます。ところが、花婿さんが何時に来るかわかりません。十人のおとめは迎える人たちです。もはや夜になっています。十人のおとめのうち、五人はともし火のために予備の油をもっています。他の五人は予備の油を持ちませんでした。いよいよ花婿さんが到着するとき、ともし火は消えかかっています。急いで予備の油を補充します。予備を持たないおとめ達は予備の油を持っているおとめ達に分けてくれるように頼みますが、分けてしまえば、その後のともし火が心配になります。それで店に買いに行くように勧めるのです。おとめ達が買いに行った後に花婿が到着し、門はぴたりと閉められます。戻ったおとめ達が門をたたいても開けてもらえなかったというのです。花婿の到着は終末を意味しています。いつ終末が来ても良いように、日頃の備えが必要であることを教えているのです。
「タラントン」のたとえ話は、財産管理が設定されています。ある人が旅に出かけるに当たり、財産を僕達に預けます。ある人には五タラントン、ある人には二タラントン、ある人には一タラントンです。タラントンはお金の単位ですが、今のお金に換算すると億にもなるようなお金です。預けられた人たちは、ただ持っているのではなく、商売をするのです。五タラントン預けられた人は商売により、もう五タラントンを儲けました。二タラントンの人も儲けました。ところが、一タラントン預けられた人は、何もしないで地面に隠しておいたのです。主人が帰ってきて、それぞれ清算をします。もちろん儲けた人たちは褒められ、祝福されるのです。しかし、一タラントンの人はそのまま返したので、むしろ叱られたのでした。預けられたものを用いることがこのたとえ話の目的です。タラントンを英語的に言えば、「タレント」です。タレントと言えば、テレビの世界でどたばた演じている有名人の印象があります。なぜそのような人をタレントと呼ぶのか。タラントンの意味は「賜物」「能力」「才能」「力」等の意味があります。すなわち、このたとえ話は神様が人間一人一人に賜物を与えているということなのです。従って、人間は誰もが賜物があるのです。能力、才能があるのです。与えられた人生を賜物を生かして生きることが私たちの人生なのです。何もしないで、賜物を生かさない人生は、終末の時に審判を受けると示しているのです。
これらのお話しを刑務所で話しました。一人の人が質問しました。「預けられた人たちは儲けて褒められたが、もし損をしたらどうなのか」ということです。今まで、このたとえ話を読むにつけ、賜物を生かすこととして示されていましたので、損をすることについては考えも及びませんでした。賜物をいただいている私たちが、一生懸命に生きるとき、必ずしも良い結果とならないこともあるでしょう。友達のために一生懸命してあげてもうまくいかない場合もあるでしょう。結果においてマイナスであり、損をした事になるのでしょう。しかし、それは人間の打算的な見方なのであり、神様においては何倍かのタラントンになっているのです。初めから損得を考えながら人間関係を生きるとしたら、タラントンは働かないのです。与えられているタラントンにより、お友達をしっかりと受け止めて歩みましょう。
聖書の言葉
「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。」(マタイによる福音書25章21節)