鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

スペイン滞在記 <17>


スペイン滞在記(2011年4月4日〜5月18日) <17>
2011年4月16日「バルセロナ日本語で聖書を読む会」


 バルセロナに在住の日本人の皆さんが聖書を読む集いを開いている。それぞれ日曜日には所属する教会に出席しているのであるが、やはり日本語で聖書を読み、日本語で集いを持ちたいと、20年前から始めたといわれる。月に一度の開催である。私たち家族がバルセロナにいる間は、ぜひ私に説教を担当してもらいたいと、日本にいる頃から依頼されていた。4月と5月に私が担当することになっている。16日の集会は4月9日の土曜日に開催の予定であった。ところがパリ行きが決まり、パリから帰ったばかりであるからと16日にしたのである。この変更は正解であったと思う。一週間延ばしていただいたので集会へのゆとりができたようである。
 今日の集会は羊子の家で開催された。皆さんの家を順次回っているという。出席したのは私たち家族の4人の他は3人の皆さんであった。メンバーは他にもおられるが、日本に帰国している人や都合で来られない人もおられた。礼拝順序は説教者の指示のもとに行われるので、六浦谷間の集会の順序で行う。司会はバルセロナ日本語で聖書を読む会の中心メンバーのSYさん、奏楽は羊子である。司会をされたSYさんは金沢キリスト教会で洗礼を受けたと言われるから、私の家の近くの教会なのである。その頃、SYさんは金沢区並木に住んでおり、教会に出席していたと言われる。かねがねSYさんについては羊子から聞いていたが、こんなに近い方であったことについて不思議なめぐり合わせと思っている。一人は男性で、私と同い年である。もう30年もバルセロナに住んでいる。企業で働いていたが、今はスペイン国公認の観光案内をされている。カトリック教会の信者でもある。滞在中、この方にお世話になる。もう一人の方はスペイン人と結婚されており、1歳のお子さんと共に出席されたのであった。
 受難週は明日の17日からであるが、今は受難節である。「十字架の勝利」として、哀歌1章1-7節、ルカによる福音書20章9-19節の聖書テキストから示された。日本基督教団の聖書日課である。実はこちらに来てから説教準備をするのは、資料もないので、日本にいるときに準備していたのである。パリの美術館鑑賞でキリストの受難の絵画を次々に見ることになり、導入として絵画鑑賞のお話しをした。それから、受難週がお祭りのようであることの意義を考えさせられているので、感想を述べた。すなわち日本の受難節、受難週は克己の生活であり、キリストのご受難を身に受け止めるのであるが、こちらではキリストのご受難が人間の救いであり、これほどの喜びはない。だからキリストのご受難はお祝いにもなるということである。キリストがご受難により人間を救われたのは何か。神様のルアッハ(神の霊、息)を人間が再びいただいて、神様の御心に生きることなのである。旧約聖書創世記に人間創造が記される。神様は土で人間の形をお造りになる。しかし、まだ人間ではない。神様は人間の鼻に神様の息を行きいれるのである。すなわち息は霊である。すると人間は生きた者になったのである。聖書はそのことが人間の根源として示しているのである。その息、霊がルアッハである。ルアッハが息であるとき、人間は神様の息ではなく、人間自らの息で生きようとしている。それが自己満足であり、他者排除なのである。預言者たちがシューブ(神様の御心に帰る)、神様の御心、神様の息に立ち帰るように働くのであるが、人間は相変わらず人間の息で生きようとしたのである。そのためバビロンに滅ぼされ、哀歌が歌われることになったのである。ルカによる福音書は救い主キリストを拒否する人々について、イエス様ご自身がたとえ話で示している。ルアッハを拒否する人々である。今、キリストの受難を示される時、そのことを真に喜ぶことがルアッハをいただいて生きることなのである。以上の説教として示されたのである。
 礼拝の終わりには祝祷をする。バルセロナ日本語で聖書を読む会の皆さんに祝福が豊かにありますように。その後、記念撮影をしたが、屋上にてサグラダ・ファミリアを背景に写したのであった。そして、その後は連れ合いのスミさんが用意した食事を皆さんでいただき、お交わりを深めたのであった。楽しいひと時であった。少人数であるが、バルセロナで日本人の皆さんが、教派を超えて神様を礼拝すること、まさに祝福である。