鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

信仰によって(宗教改革記念日)

10月31日はプロテスタント教会においてはとても大事な日であります。宗教改革記念日とされています。この日を起点として、カトリック教会に対するプロテスタント教会が出来たのです。主イエス・キリストの教えを信ずる人々が多くなり、2世紀にはキリスト教が成立します。イエス様が人々に教えていた頃はまだキリスト教は成立していません。ユダヤ教の社会の中で、神様の御旨を示し、戒律の再解釈を示したのがイエス様の教えなのです。しかし、当時の宗教指導者たちのねたみにより十字架で殺されてしまいます。しかし、神様はねたみによる十字架刑でありますが、この十字架により人間をすくわれたのです。すなわち、イエス様の十字架の死と共に、人間の深いところにある自己満足、他者排除の姿を滅ぼされたのでした。人間は、十字架は私の救いであると仰ぎ見る時に救われるのです。十字架による救いの信仰が弟子達によっての宣べ伝えられました。そしてキリスト教が成立し、次第に広がっていきました。当時の世界はローマの国が支配していました。ローマは皇帝を神とし、支配している人々に拝ませたのです。しかし、キリスト教の人々は人間である皇帝を拝みませんでした。それで、ローマはキリスト者を迫害するようになります。迫害しても迫害してもキリスト者は居なくなりません。その信仰の力に脅威をもったローマは、ある時点で、このキリスト教を自国の宗教としてしまうのです。そこで出来るのがローマカトリック教会です。カトリックとは「公同の」を意味します。カトリック教会を旧教、プロテスタント教会を新教というのは間違いです。
何にしても物事が発展すると堕落も並行するものです。中世の時代、16世紀はまさに堕落の時代でありました。当時のカトリック教会は大きな教会堂を造るために資金が必要でした。それで売り出されたのが「免罪符」でした。この免罪符を買うと悪いことをした人でも赦されるといわれます。免罪符を買えば赦されるのですから、人々は喜んで買ったのでした。そのようなことに疑問を持ったのがマルチン・ルターでした。さらにいろいろな諸問題を感じるようになり、95の問題点を書き出して教会の扉に張ったのです。それにより大きな問題となり、教会はルターと論争します。結局、ルターはカトリック教会から破門されるのです。ドイツに逃れたルターは、改めて聖書を読み、聖書から神様のお心を示されたのでした。今までは教父の教えが大事であり、聖書を読んだりすると批判されたりするのでした。
こうしてカトリック教会に抗議(プロテスト)したのでプロテスタント教会が出来たのでした。宗教改革運動は各地で始まりましたが、やはり改革を先駆けたマルチン・ルターの働きは大きいといえるでしょう。ルターは宗教改革で、何よりも示されたことは、人の業ではなく、神さまへの信仰でした。それは聖書に、パウロが書いたローマの信徒への手紙の中で、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」(2章28節)ことを示されたからです。この言葉を示されたルターは「人が義とされるのは、信仰によってのみ」としました。聖書にはヤコブ書があり、そこでは「人は行いによって義とされる」(2章24節)と示されています。矛盾するような聖書の二つの言葉です。しかし、同じことを言っています。信仰による人生は、自ずと証しの生活が導かれてくるのです。
私たちは時々、自らの生き方を振り返る必要があるでしょう。なかなか自分自身の生き方の善し悪しについては分からないものです。いろいろと周囲を見回すことも必要ですが、何よりも聖書に示される神様のお心をいただくことでしょう。新たなる歩みが導かれるのです。

聖書の言葉
「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」(2章28節)