鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<475>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<475>
2019年2月2日「この道を歩きつつ」

聖書の言葉
あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け。右に行け、左に行け」と。
旧約聖書イザヤ書30章21節)

2019年も2月を迎えている。今年はインフルエンザが流行しているが、どうやら今年はかからないでいる。昨年は年末から年始にかけてスペイン・バルセロナ在住の羊子家族が一時帰国していた。羊子の彼、イグナシオと息子の義也である。義也は2月12日が誕生日なので、まだ1歳にはなっていない。お正月に来てくれたのであるが、どうも体の調子が良くない。それで医院で診察してもらったらインフルエンザであった。たいした熱もなく、咳もあまり出ないので油断していたこともある。羊子家族に移らないように、なるべく交わらないようにしていた。彼らが帰国しても、移っていないようで安心したのであった。どういうわけか、お正月頃になると風邪を引く様である。今年も風邪気味なので医院に診察してもらったがインフルエンザではないということであった。いわゆる風邪のヘルペスが鼻にできてしまい、鼻の傷状が気になる。幼稚園の子供たちも園長の鼻の傷が気になるようである。「どうしたの」と聞かれるのであった。そのため幼稚園でも、鼻の傷を隠すためにもマスクをしていたと言う訳。その幼稚園も風邪やインフルエンザが多くなり、1月28日の午後から31日までは休園としたのであった。
2月を迎え、2月4日は立春であり、なんとなく希望が出てきている。やはり寒い時期は身も心も消極的になってしまう。幼稚園に行く日は朝の6時前には家を出るのである。まだ暗い。その時間、歩いている人はいなくはないが、なんとなく物騒な思いを持ちながら駅まで歩くのである。家から幼稚園まで電車で通っているが、約2時間を要する。六浦駅で電車に乗る頃はまだ暗いが横浜駅に着くころは明るくなっている。そして幼稚園のある伊勢原駅に着くころは朝日をいただきながら歩くのであった。
六浦駅まで、今の足で15分くらい歩くのであるが、間もなく80歳になる身で、まさか通勤の道になるとは思わなかった。小学校を卒業したとき、公立中学に進む所、私立の中学に進む。今は「能見台駅」と称しているが、その頃は「谷津坂駅」であった。六浦駅から三つ目の駅である。3年間電車で通学したのであるが、高校はといえば「弘明寺駅」である。六浦駅から八つ目の駅になる。そこでも3年間通学することになるので、6年間は自宅から六浦駅を行き来したのであった。そして、今になってもこの道を行き来していることに不思議な導きと言うものを感じているのである。線路わきの道を駅まで行き来するときいろいろな思い出がよみがえってくる。まだ小学生の頃、夕刻になって雨が降ってきたので、母に言われて父の傘を持って六浦駅まで向かった。間もなく駅に着こうかと思う頃、後ろの方で声がしていた。振り返ると、遥か向うの方で父が私を呼んでいるのである。どうやら父とは行き違いになったようである。200メートルはあろうかと思われる。今でも、その父の呼び声が耳から離れない。この六浦駅までの道を歩くとき、いつも示されている遥かなる父の呼び声である。
もう一つの思い出も忘れられない。中学になると姉たちが出席していた横浜の清水ヶ丘教会に出席するようになる。小学生の頃は関東学院教会の日曜学校に通っていたのである。教会には二番目の姉、清子と一緒に行くことが多かった。六浦駅に向かうとき、一団の女の子たちに出あうのである。小学校2、3年生くらいの二人の女の子は、二人とも妹がおり、いつも連れ立って関東学院の日曜学校に行くようである。私が聖書と讃美歌をむき出しに持っているので、こちらの様子を認識していたようである。そのうち、会うごとに会釈するようになっていた。妹たちが寄り道したりしているので、姉の清子が声をかけたりしていたのである。何ともかわいらしい姉妹たちであった。高校生の頃になると、日曜日の教会通いは早めに行くようになり、その後は会うこともなくなっている。この道を歩くたびに、あの可愛い姉妹たちを思いだすのであった。
そんないろいろなことが思い出される道であり、まだ暗い道でも、ほのかな温かみを感じるのであった。「これが行くべき道だ、ここを歩け。右に行け、左に行け」と主の言葉を聞こえてくるようだ。