鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<474>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<474>
2019年1月4日「ナルドの香油をささげつつ」



聖書の言葉
「イエスがベタニアでシモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女性が純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持ってきて、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」
新約聖書・マルコによる福音書14章3節)



2019年が始まり、やはり、この一年も何とか歩みたいと思っている。今年は日曜日が1月6日なので、六浦谷間の集会の週報も新年になって作成する。六浦谷間の集会を始めたのは2010年11月であるが、最初から週報を発行しなかった。当初は礼拝順序を記した程度のものであった。そのうち、その程度のものに写真等を入れたとき、我が家の子供たちが、大塚平安教会時代に発行していた週報みたいになるのかね、なんて言ったことがきっかけとなる。早速、週報として発行したのは2011年5月29日であった。週報を発行するものの、教会でもなく、報告にしても消息にしても、集会案内にしても、ほとんど書くことがない。それでも鈴木家を中心に、何かと報告を書くようにしたが、それでも空白が多い。そこでスペイン滞在記をブログで公開していたので、週報にも滞在記を記すようになったのである。当初は主題や聖句を定めなかったが、2014年の週報から年主題と聖句を週報に掲載するようになった。
2014年の主題は「一生信仰」とし、聖句は詩編73編28節、「わたしは、神に近くあることを幸いとし、主なる神に避けどころを置く。」である。2015年の主題は「賜物に専念する」とし、聖句はローマの信徒への手紙12章6節、「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています。」である。2016年の主題は「お恵みを感謝しつつ」とし、聖句はコリントの信徒への手紙<二>12章9節、「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。」である。2017年の主題は「神様のお導きに委ねつつ」とし、聖句はガラテヤの信徒への手紙5章25節、「わたしたちは、霊の導きに従って生きているのなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」である。昨年の2018年の主題は「キリストの香りを放ちつつ」とし、聖句はヨハネの黙示録5章8節、「この香は聖なる者たちの祈りである。」である。
さて、今年の主題はどの聖句で示されるかである。示されたことは大切な物をささげつつ歩むことである。そこで2019年の主題は「ナルドの香油をささげつつ」とし、聖句はマルコによる福音書14章3節、「一人の女性が、純粋で非常に高価なナルドの香油をイエスの頭に注いだ。」とした。ここで訂正しておきたいのは、2017年の聖句はローマの信徒への手紙として記していたが、ガラテヤ書であった。一年間、誤りのまま掲載してしまった。
「ナルドの香油」は一人の女性が、イエス様の頭に高価なナルドの香油を注いだということで、お弟子さんの中には、「もったいない」ということで、その行為を批判した。売れば大金になり、それを貧しい人々に施すことができると言うのである。それに対してイエス様は、この女性の行為を評価し、貧しい人達はいつも側にいるので、いつでも施しができる。この女性はイエス様の埋葬の準備をしてくれたと言われたのであった。すなわち、十字架への道を備えてくれたと示しているのである。そのために高価な香油をイエス様にささげたということである。これこそ立派な信仰なのである。イエス様のために、私たちは何をささげられるか。私達の高価なささげものとは何であるのか、いつも問われていることである。
讃美歌にはこの聖書を基にしたものがある。54年版は391番、讃美歌21は567番である。この讃美歌を愛唱讃美歌にしているので、大塚平安教会を退任するとき、送別会では聖歌隊が合唱してくださった。普通の生活でも口ずさむこともある。2011年の4月から5月にかけてバルセロナに滞在した。娘の羊子がピアノの演奏活動をしているからである。その時、羊子は私達をパリの三大美術館に連れて行ってくれた。そして、ルーブル美術館でこのナルドの香油を題材した絵画が展示されていたことでは大きな感動が与えられたのであった。
私にとって、「ナルドの香油」とは何であるか。新しい年は私が持っている香油を発見することである。




ルーブル美術館に展示されている「ナルドの香油」の絵画。



絵画の前でしばしたたずむ。この絵はヨハネによる福音書を題材にしている。
ヨハネは足に香油を注いだが、マタイとマルコは頭に注いでいる。