鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

スペイン滞在記 <62>

 

スペイン滞在記(2011年4月4日〜5月18日) <62>
2011年5月18日「遥かなるバルセロナ
 


昨日、バルセロナを発ったのは午前9時45分頃であり、成田飛行場に着いたのは今日の午前7時40分頃である。すべて予定通りのフライトであった。バルセロナは日本時間より7時間遅い。従って15、6時間くらいの距離となる。飛行機の中で画面に飛行ルートが表示されていたが、まさにスペイン・バルセロナは遠い。今、遥かなるスペインとして思い返すのである。
 3月11日に東北関東大震災が起きたばかりであり、4月4日からのスペイン・バルセロナの旅は躊躇せざるを得なかった。しかし、この機会を逃したら、いつになるか分からないので、意を決して行くことにしたのである。45日間のスペイン生活は、いろいろな体験を与えてくれたし、考え方も変えさせられたということを告白しておく。もはや牧師の隠退の境地にいるとき、新しい出会いと体験は、この年齢、72歳になって前向きな姿勢を与えてくれたようである。この年になると、固定観念があり、どうしても変えられない自分がある。だから若い人たちの生き方に対して理解できなかったり、眉をひそめたりするのである。他の存在の生き方を尊重することにおいて、随分と考えさせられたということである。
 一つのことは、歩行者交通ルールというものである。道路には信号があることは、どこの国でも同じであり、信号を守りつつ動くことは大切なことである。しかし、フランスのパリに行った時にも感じたが、歩行者の信号無視は驚くばかりである。車は一応信号に従っている。しかし、歩行者は信号が赤でも、車が来なければ平気で渡って行く。もちろん、車が近づいていれば待っているが、車が近づいていない限り渡ってしまうのである。全部の人がそうだと言うのではない。赤信号であれば、青信号になるまで待っている人も、もちろんいるのである。赤信号で車が来ないので渡っているが、すぐそばに警察官がいても注意しない。日本であれば、赤信号では止まれであり、青信号になるまで、車が来なくても渡らないことは習慣であり、規則でもある。幼稚園の子どもから教えているのである。規則を厳重に守ることが体にしみ込んでいるということである。
 



日本の信号に比べ、あまり目立たない。
見落としてしまうことも



サグラダ・ファミリア前は人があふれている
道路にまで人があふれている


フランス・パリの信号
自動車の停止線がない


信号を守る、守らないで、善悪を言おうとしているのではなく、それぞれ生き方の責任というものを考えさせられたのである。赤信号であるから規則を守って止まっている。赤信号でも、渡っても差しさわりがなければ信号を無視する。この場合、信号とは何かということである。赤信号であるが車が来ない。いつまでも青になるまで待ち続けていることは時間の無駄でもある。だから渡る必要があるということになる。それは確かに規則違反であるが、その違反は何の意味もないということになる。また、赤信号だから青になるまで待っていることの意味は何であるか。規則だからであるが、無駄な時間ではないだろうか。ここで信号無視を奨励しているのではない。この規則が自分にとって、今の状況においてどのような位置づけがあるかと言うことなのである。車が近づいているのに、時間の無駄であるからと、赤信号でも渡ることは規則違反であるし、身の危険である。この規則は車が近づいている状況において重要なルールになる。一つの状況の中で、ルールが必要な時がある。ルールが必要のない状況もあるということである。規則を守る、守らないということを考える前に、もっと大切なことがある。
 主イエス・キリストは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネによる福音書15章12節)と示している。掟であると言っているので、「愛する」ことはルールなのである。しかし、ではこのルールの具体性は何であるか。人を愛するとき、このようにしなさい、そのようにしなさいという具体的なことは示していないのである。自分が主体的にこのルールを実践して行くということである。今必要なことは何であるかと言うことである。
 信号に対する人々の考え方から、示されたことであり、信号無視を奨励しているのではない。自分が主体的に生きることを示されたということである。大きな主題は人が共に生きるということなのである。それにはルールではなく、愛の実践と言うことになる。