鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

続く聖徒の召天( 土台の上に建てられて )

 
 前日本基督教団総幹事の竹前昇先生が召天され、1月31日に葬儀が行われたということを聞きました。第33総会期から第35総会期まで日本基督教団総会副議長を務められた小林眞先生からお電話をいただいたのは昨日1日でありました。竹前昇先生の葬儀でお会い出来ると思っていたということでした。他の用事があったので、葬儀の時に伝える予定が、列席が無かったので電話しましたということでした。31日は小林利夫先生の召天記念式であり、偲ぶ会が開催されたので、竹前昇先生の葬儀には列席できなかったのでありますが、しかし、葬儀についてはどなたからも連絡が無かったのです。27日に牧師の有志の集いがあり、その時に竹前先生が召天されたということを伺いましたが、まだ葬儀の日程については未定でした。もし、日程が分かっていれば、30日の前夜式に列席したでしょう。
 竹前昇先生とは深い関係ではありません。しかし、先生が総幹事になられてから私が書記に就任しましたので、職務上のことやお交わりが導かれたのであります。最初に先生と仕事をするのは、先生が東京教区議長の時でありました。私も神奈川教区議長であり、教団内に設けられている教区活動連帯金配分委員会で四教区議長が集まって協議するのでした。その時の委員は東京、神奈川、北海、大阪の教区であり、各議長が出席して配分の協議をしたのです。大阪教区事務所で開催したことがありましたが、「ご苦労様ですね」と私に労いの言葉をかけられたのが忘れられません。その頃から先生は教区活動連帯金配分について意見を持たれており、教規に定められていない連帯金についての方向を考えておられたようです。ですから協議するうちにも新しい方向性を交えながら意見を述べられていたのです。
 私は第33総会で書記に選任されましたが、竹前先生は第32総会で総幹事に選任されています。忘れられないのは、第34総会は冒頭から混乱しました。問題提起者により、2時間も遅れて開会したのでした。その冒頭の時間、問題提起者達が議長席に詰め寄ってきましたが、山北宣久議長は席から離れ、壇上の外れの方に移動していました。問題提起者が議長を囲み、また副議長に激しく詰め寄っていたのです。私はと言えば、議長団席に竹前昇総幹事と並んで座っていました。私達には問題提起者達は詰め寄ってこないからでした。その時、竹前総幹事は、議長の側にいてあげたらよいですよ、と助言されました。それで私が取り囲まれている議長の側に寄ろうとすると、誰かが私の右腕をつかみ、激しく引き戻したのでした。よろけて倒れそうになりましたが、何とか踏みとどまりました。右腕を抑えているのは問題提起者の一人で、女性でした。その後も放そうともしないのです。ここにいるからと言ったのでようやく放したのでした。結局、2時間遅れて開会しましたが、その時間は組織会も行われておらず、議事運営委員会も補助書記も選任されていないのです。私は議長団席に上がった直後に手持ちのボイスレコーダーのスイッチを入れていました。そのため、混乱の中にも議長の発言を録音することができたのです。それは開会前のことなのですが、議長が混乱の経過説明をしていますので記録に残しました。それはどこにも公にできないと思っていましたら、竹前昇総幹事が、これは良い資料になるというので総幹事報告の中に入れたのでした。
 毎年、6月になると新任教師オリエンテーション天城山荘で開催されます。宿泊はいつも議長と副議長、総幹事と書記が相部屋で泊まることになっていますが、2年にわたって総幹事と一緒の部屋でした。総幹事は早寝早起きで、私が他の部屋で遅くまで話し込んでおるので、朝の礼拝間際まで寝ているものですから、起こしてくれたりしたものです。
 教団の歩みのために、長く東京教区議長を務め、総幹事を6年間務められました。頌栄教会、聖徒教会の牧会を担われたのであります。また一人の聖徒を天にお送りしたと思っています。
<聖書の言葉>
あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエスであります。
(エフェソの信徒への手紙2章19節)