鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

歯医者さん( 清く保たせると )

 
 歯医者さんに行きました。歯茎が腫れてきましたので、かねがね適当な歯医者さんを捜していましたが、近くの歯医者さんに行きました。。連れ合いのスミさんは六浦駅の近くにある歯医者さんに行くようになりました。最近、散歩をしているうちに、自宅からすぐ近くに歯医者さんがあることを知りました。自宅は谷間ですが、上の住宅街の一角に歯医者さんがありました。歯茎が腫れたと言っても、大分治ってきていました。自己診療ですが、歯茎にイソジンを塗り、ロキソニンを飲んでいたら、腫れが治まってきましたし、痛みもなくなってきました。また、飲みかけの抗生物質や痛み止めを持っているので、それらを服用したりしました。しかし、自己診療は良くないので、歯医者さんに行くことにしたのでした。歯医者さんも治りかけている歯茎を消毒しただけで、後は経過を見ることにすることでありました。また、痛くなったら来てくださいということでした。一応、痛み止めと抗生物質を出してもらいました。
 昨年4月からこの六浦の家に住むようになりましたが、床屋さん、美容院、病院等を捜しながら今日まで生活して来ました。連れ合いのスミさんは病院が決まり、その病院で診療を受けながら歩むことになりました。床屋さんも美容院も何とか所定の場が与えられたようです。こちらにも新しいクリエイトができましたし、買い物も車で出かけては用をたすことができています。そのクリエイトの近くにヨークマートというスーパーマーケットが今年の8月にはできるということで、だんだん便利になりつつあり、生活の基盤が定まってきているようです。 
 私は骨が丈夫な方で、歯も丈夫なのですが、もう年齢的なことであるでしょう。昔、まだ小さい頃、固いもの、例えば大豆を父に噛んでもらい、柔らかくなった大豆を食べたものです。とても美味しく食べたことを覚えています。ところが同じことを三人の子供たちにもしてあげたりしました。三人の子供たちが小さい頃、固いものを噛んでは与えていました。三人の子供たちは美味しいと言いつつ食べたものです。固いものがあると、噛んでと言っては持ってくるのです。その話を大きくなった子供たちにしました。「やだあ、汚らしい」と言ったものです。
 聖書には歯に関するたとえ等が記されますが、一つは歯と牙を同一として記します。牙をむいて襲ってくるようなことです。また、歯が大切なものであり、歯を痛めるならばその代償が大きいことを示しています。「もし、自分の奴隷の歯を折った場合、その歯の償いとして、その者を自由に去らせねばならない」(出エジプト記21章27節)。さらに、人々がけんかをして、妊娠している女性を打ち、流産させた場合は、その女性の主人が要求する賠償を支払わなければなりません。その他の損傷がある場合も償わなければならないのです。そこで示されるのが、「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない」(出エジプト記21章22-25節)。これは復讐を教えているのではなく、そのように自分もなるから注意しなさいと教えているのです。歯を祝福の象徴として示しているのはヤコブの子供・ユダへの言葉です。「彼の目はぶどう酒によって輝き、歯は乳によって白くなる」(創世記49章12節)。ヤコブは12人の子供たちに祝福を与えていますが、特にユダには幸いな祝福を与えているのです。後にユダ族が人々の中心になるからなのです。エゼキエルと言う預言者は、人々が今の状況がよろしくないのは、先祖が悪いからだと言っているので、そんなことはないのであり、先祖は先祖、今のあなた方は今のあなた方なのだと示しています。今の自分の責任を先祖の故とするのは間違いであると示しているのです。「このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。『先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く』と。わたしは生きている、と主なる神は言われる」(エゼキエル書18章2節)。
 歯の痛みを持つとき、聖書の示しをいただきながら治療することに致しましょう。
<聖書の言葉>
だから、わたしもお前たちのすべての町で、歯を清く保たせ、どの居住地でもパンを欠乏させた。しかし、お前たちはわたしに帰らなかった、と主は言われる。
アモス書4章6節)