鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

聖徒の召天( 適した者とされながら )

 
 本日は、昨年12月23日、79歳で召天された小林利夫先生の召天記念式および偲ぶ会が日本聖書神学校で開かれましたので、出席致しました。もっとも午後1時30分からの召天記念式には都合で出席できませんので、午後3時からの偲ぶ会を目指して会場に向かいました。しかし、丁度3時頃につきましたが、まだ召天記念式は終わっていませんでした。式の終わりに4人の方が思い出をお話するのですが、それが始まった時でした。一番後ろの席で聞くことになりましたが、あまりよく聞こえなかったという状況でした。
 式が終わって偲ぶ会の会場が図書館の3階の広間で開催されました。用意された食べ物をいただきながら、皆さんが思い出をお話されたのであります。私も親しく存じ上げている先生なので、求められて思い出をお話致しました。もはや教団を代表するものではありませんが、教団として、先生が日本基督教団の要職を担われたことの感謝を述べました。先生は教団の常議員として教団形成に尽力されたのです。また教師委員会委員として、教職養成にも尽力されました。神奈川教区では常置委員、副議長、巡回教師、教区主事等を務められ、教区運営にもお力添えくださっています。教区主事については、岩粼隆教区議長と共に、葉山のお宅に主事就任のお願いに伺いました。日本聖書神学校の校長先生を8年間務められた先生に、教区主事をお願いして良いものだろうかと心配しつつ伺いました。小林利夫先生は私たちを歓迎され、主事就任を快くお引き受けくださったのでした。
 小林利夫先生については、略歴には紹介されてない思い出があります。それは私が神奈川教区議長の時代に、神奈川教区として老人施設を造るという計画でした。その始まりにおいて先生がいろいろとお知恵をくださり、また共に現場を視察したりしたのであります。先生のお知り合いの方が葉山の家を売りたいとの情報を提供してくださり、実際に家を見に行ったのでした。しかし、その物件は無理があるようで断念しました。その後、神奈川教区の高齢者施設として秦野の物件を決め、株式会社サンフォーレと共に老人施設を立ち上げることにしたのです。しかし、教会が企業と提携して老人施設を建設することの問題提起があり、教区総会では、意見は並行するばかりで決議することは困難でありました。そこで、この議案を取り下げ、有志の取り組みとしたのであります。現在、神の庭サンフォーレが秦野に建てられていますが、キリスト者の老人施設として存在しています。支える会が組織され、牧会的な支えをして活動しているのです。立ち上げの段階で小林利夫先生がご尽力くださったことを明記しておきます。
 もう一つの関わりがあります。現在、私は無任所教師ですが、月に一度、横須賀上町教会の礼拝説教を担当しています。昨年9月まで森田裕明牧師が牧会していました。10月からは横浜本牧教会に転任しましたが、教会は代務者をおいての歩みになりました。森田裕明牧師は大きな病気を経験しています。その時、小林利夫先生が礼拝を担当してくださったのです。その後も森田牧師の健康状態からして、月に1、2度の礼拝説教を担当されていました。森田牧師が転任後は小林先生が礼拝を担当くださることになっていましたが、小林先生の体調がよろしくなく、私が横須賀上町教会を応援することになったのであります。森田裕明牧師が日本聖書神学校を卒業するとき、神学校の校長先生が決まってなく、ようやく1月から小林利夫先生が校長に就任したのであります。従って、小林先生の名により卒業証書を受理したのでありました。森田裕明牧師が北海道の教会に赴任しましたが、その後横須賀上町教会の牧師に就任しました。その時は、小林利夫先生は横須賀小川町教会の牧師でした。至近距離にあり、何かとお世話いただいたことを、森田裕明牧師は偲ぶ会でお話をしていました。
 主イエス・キリストの救いの福音を、生涯をかけて宣べ伝えた聖徒でありました。
<聖書の言葉>
こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つの者となり、
(エフェソの信徒への手紙4章12節)