鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

節分の豆まき( 命の冠をいただくために )

 
 今日は節分であり、豆まきが行われました。神社仏閣で有名人が豆を蒔く風景は、今年もニュースで報じていました。丁度、相撲の八百長が発覚したばかりで、力士の豆まきはあまり見かけられなかったようです。この節分に「恵方巻」(えほうまき)というお寿司を食べることについては、今まで知りませんでした。そう言えば、コンビニに寄ると「恵方巻」の予約案内があり、なんで予約なんかするのだろうと思っていたのです。今日の読売新聞の漫画「コボちゃん」でも「恵方巻」を食べていました。節分についてネットで調べましたら、その「恵方巻」が合わせて紹介されていたのです。恵みの方角、今年は南南東とかで、そちらの方を向きながら無言で、いっきに「恵方巻」を食べると願い事がかなえられるとか。お寿司の具材は七福神にちなんで、七種類あるとも。本当にこの「恵方巻」については今に至るまで知りませんでした。関西で始まった節分行事の一つであると言われています。それで、面白いし、連れ合いのスミさんと話題を共有するために、散歩の途中、コンビニで恵方巻二本を買って帰りました。
 ところで節分ですが、豆まきを幼稚園で行っていました。子ども達は鬼のお面を楽しく制作します。礼拝の後に豆まきを行うのです。まず子ども達が制作した鬼のお面をつけますので、園長がそれぞれの鬼に向かって、豆を優しく投げてあげます。子ども達は声を張り上げて逃げ惑うのです。豆は殻付きのピーナツです。今度は園長が鬼のお面をつけると、子ども達が一斉に園長の鬼に豆を投げ付けるのです。子ども達は容赦なく、思いっきり豆を投げますので、それはそれは受難の時なのでした。その時、鬼は「ごめんなさい。もう意地悪はしません。わがままは言いません。皆とお友達になります」と言いながら逃げ惑うのでした。
 そのようにキリスト教幼稚園でも豆まきをしていますので、ある時、一人のお母さんが園長に聞きたいことがあると言いつつやってきました。「キリスト教の幼稚園で、何故他の宗教の習慣を行うのですか。仏教の幼稚園がクリスマスのお祝いをしているのと同じではないですか」と言うのです。もともと節分の豆まきは宮中の邪気払い、悪霊払いとして行われていたようです。従って、発祥は神道と言うことになりますが、今は神社仏閣で行われているにしても、そんなに宗教色はないようです。むしろ邪気払い、悪霊払いを聖書的にとらえているのです。これはマタイによる福音書4章1節以下で、主イエス・キリストが悪魔と闘ったことから教えられようとしているのです。イエス様が社会に出て神様の御心を示す前に、荒れ野の修行がありました。40日間断食して祈りつつ過ごしたのであります。修行が終わると悪魔が出てきました。悪魔は空腹のイエス様に、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と持ちかけるのです。40日も断食して、空腹感はないでしょう。しかし、これから社会に出て行くにあたり体力をつけなければならないのです。悪魔の誘いのようにしたのでしようか。イエス様は、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」との申命記8章3節の言葉を引用して悪魔を退けたのでした。次に悪魔はイエス様を都の一番高い建物の上に立たせ、そこから飛び降りたらどうかと誘います。神様が天使を送って、下の石に落ちる前に支えてくれるだろうと誘うのです。それに対しては、「あなたの神である主を試してはならない」との申命記6章16節の言葉で誘いを退けました。次の誘いは、この世の栄華を示しながら、悪魔の前にひれ伏して拝むなら、これらのものは与えられると誘うのです。それに対して、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」との申命記6章13節の言葉を示し、「退け、サタン」と一喝したのでありました。
 豆まきは、自分の中にある悪い心をイエス様のお心にあって追い出すことなのです。子供たちもそれは良く心得ています。祝福の成長へと導かれるのです。
<聖書の言葉>
試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。
ヤコブの手紙1章12節)