鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

新しい牧会手帳( 収めきれないイエス様の証し )

 
 教団より「牧会手帳」が送られてきました。牧師用の手帳です。手帳 ですから、基本は一般的な予定表、日々のメモ書き、住所録等ですが、聖書日課が記されており、また日曜日の礼拝における聖書も示されています。私の場合は、牧会手帳に記される聖書日課で御言葉に向かっています。その日の旧約聖書新約聖書の書簡、福音書をテキストとして示されているのです。その他、牧会手帳には教団機関が記され、教団の簡単な歴史、歴代の役員が記されています。私も2002年10月から教団書記に選任されましたので、記されているのです。送られた手帳は2011年のものであります。教団書記は来週の10月26〜28日に開催される起用団総会で職務を退任しますので、2011年は書記ではないのに記されるのです。これは歴代の役員については、今後も記されることになりますので、私がこの世からいなくなりましても、記されることになります。別に名誉であることを言いたいのではなく、書記として務めた記録が残ることに対しては、やはり重く受け止めているのです。
 牧師は、だいたいはこの牧会手帳を持ちますので、例えば喫茶店等で打合せをするとき、みな同じ手帳を出して話し合っている様は、なんとなく異様な風景であるでしょう。牧会手帳は小型でもあるので、あまり書き込みができないため、別の手帳を利用する人もいます。私もそんな意味で、もっと書き込みができる手帳を捜しました。しかし、一般の手帳は月曜日が最初におかれ、日曜日は終わりに位置しているのです。キリスト教では日曜日から始まるので、月曜日から始まる一般の手帳は使いにくいということです。小型でありますので、内ポケットにしまうことができます。やはりいろいろな面で便利といえるでしょう。
 以前、手帳を紛失したことがあります。昔は携帯電話はありませんでした。車を運転しつつ、用事を思い出し、車を止めて公衆電話を使用しました。それは遠方に出かけたときのことです。電話が終わり、再び車を運転して帰って来たのでした。ところがポケットには手帳がないのです。いろいろと考えた末、公衆電話のボックス内に忘れてきたことが思い当たるのです。取りに行くには遠方であり、あきらめました。親切な人が送ってくれることを願ったのですが、送られてきませんでした。秘密のことは記していませんが、住所録にはかなりの人の住所が記されています。今では個人情報問題がありますが、以前は個人情報なる言葉もなく、結局紛失したままになりました。問題は手帳がないと何も出来なくなってしまうことです。予定表にはびっしりと書き込まれていますので、本当に困りました。牧会手帳を新しく求め、記憶をたどりながら予定を書きこみ、確認の電話をしたりして、何とか再現したのですが。
 新しい牧会手帳を開きましたが、はて、予定表に書くことがあるかなと思いました。今までの予定表は、それこそ毎日のように予定が書き込まれています。予定表欄が真っ黒というわけです。ところが牧師を退任、園長を退任、教団の職務を退任することで、予定を書き込むことがなくなりました。命より大切とは大げさでありますが、それほど重みのある手帳でしたのに、予定が書き込まれない手帳の意味がなくなりました。それでも生きている限りは、今後の予定があるのですから、たまにしか予定を書きこまないにしても、また無任所教師であったとしても、この牧会手帳は大切であります。何よりも、無任所教師になり、講壇に立たなくなっても、御言葉に向かい、説教を作成しているのですから、この牧会手帳の聖書日課は必要なのです。
 31年間の牧会手帳があります。もっとも、最初の頃は処分してしまいました。メモ書きではありますが、記されたことは歴史になり、思いだしては古い手帳を参照することがあります。結構、資料になるのです。これからは、メモ書きではなく、もう少し丁寧に記録しておくことにしましょう。
<聖書の言葉>
エスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を治めきれないであろう。
ヨハネによる福音書21章25節)