鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

無任所教師第一日(外なる人は衰えても)

 ついに無任所教師となりました。無任所教師というのは、どこの教会にも所属せず、またキリスト教主義学校の教師でもない人です。教会に所属するので「牧師」と言われますが、無任所教師は「牧師」とは呼ばれません。教団の教師でありますので、どこにも所属しない無任所教師という身分になります。それに対して「隠退教師」は、教師を隠退した人ですが、隠退しても教師なのです。つまり信徒から献身して教師・牧師になりますが、その時点から信徒ではなく、死ぬまで教師ということになります。無任所教師と隠退教師はどう違うのか。隠退してしまうと、公式な職務につけません。例えば、私の場合、教会の牧師を退任しましたが、無任所教師でなければなりません。日本基督教団の総会書記を担っているからです。隠退してしまうと総会書記も退任しなければならないからです。日本基督教団の総会が2年ごとに開催されますが、今年の10月26〜28日に開催されることになっており、そこで4期8年間勤めた書記を退任致します。その後は隠退してもよいことになります。総会が終わって書記を退任しますが、来年の3月までは無任所教師のままで過ごすつもりです。期待はしていませんが、どんなお務めがあるかも知れないからです。
 41年間6ヶ月間、牧師として務めました。最初は東京の青山教会であります。神学校を卒業したばかりで、伝道師として赴任しました。主任牧師は宮内彰先生でした。私が29歳の時であります。宮内彰先生は72歳であり、この先生のもとで訓練されました。やがて正教師となり、副牧師としての務めを担うことになりました。4年間のお務めでしたが、その後は宮城県の陸前古川教会に主任牧師として就任したのであります。それまで陸前古川教会で牧会された後藤金次郎牧師は40年間、牧師として、幼稚園園長としてのお務めを果たされました。ご苦労が多かったと思います。かなりのご高齢であったと思います。その後に33歳で就任したのであります。前任の牧師が幼稚園の園長を兼任していたので、招聘のお話が進められた時、当然のこととして園長職も担うつもりでいました。しかし、最終的には園長は教会員が担うということでありました。少し気が抜けましたが、いつまでも副牧師の身分はよろしくないと思い、赴任したのであります。陸前古川教会で5年ほど牧会をしているとき、登米教会の兼務牧師を要請されました。そこでは園長も担うということでありました。この要請を陸前古川教会の皆さんに承認していただき、兼務牧師になったのであります。登米幼稚園の園長としても就任しました。しかし、1年後に大塚平安教会からの招聘があり、1979年3月に陸前古川教会牧師、登米教会牧師、登米幼稚園園長を退任したのでありました。
 宮城県の教会で牧会しつつも、できれば、いつかは両親の近くの教会に赴任したいという願い、祈りを持っていました。1979年4月に大塚平安教会、ドレーパー記念幼稚園園長に赴任した時、両親は80歳を過ぎていました。まさに神様のお導きを示されたのであります。両親は横浜市金沢区六浦にある家で過ごしていました。大塚平安教会が存立する綾瀬市からは車で1時間の距離でありました。その距離にありましたので90歳で亡くなった母、97歳で亡くなった父の介護を私の姉たちと共に連れ合いのスミさんがすることができたのです。
 2010年3月で大塚平安教会及びドレーパー記念幼稚園を退任しました。しかし、その後、横浜本牧教会の代務者、早苗幼稚園園長を要請され、9月末でお務めを終了したのであります。今、私達夫婦は両親が住んでいた家に落ち着きました。この家は私が4歳から23歳まで過ごした家であります。もっともその当時の家は古くなり、危険な状態にもなっていましたので、今は建て替えた家になっています。書斎でしみじみと41年6ヶ月の牧師の歩みを振り返っているところです。神様がこの私を牧師に導き、その働きをお導き下さったこと、深く受けとめ感謝をしているところであります。
<聖書の言葉>
だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
コリントの信徒への手紙(二)4章16節