鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

信仰とは…(キリスト教弾圧の中で・柵山悦也さんの証)

今日もまた「信教の自由を守る」ことについて記すことにいたします。信教の自由を守ることは命がけでもあるのです。今は、まさに自由に信仰を持つことが出来ますが、命を奪われても信仰は奪われない人々がいたのです。ローマ帝国の時代、皇帝は神であるとし、拝むことを強要しました。しかし、キリスト教の人々は、皇帝であっても人間であり、神ではないとして拝みませんでした。そのため、ローマ帝国キリスト教を迫害しました。しかし、迫害しても迫害してもキリスト教徒はいなくなりません。迫害により死んでいくときにも、笑みをもって死んでいくのです。この強い信仰を持つ人々にローマは脅威をもつようになります。そして、ローマ帝国自身がキリスト教の国家となるのでした。
人間を神としたのは日本でも同じです。戦争中、天皇を神とし、拝むことを強要したのが軍国日本であったのです。侵略したアジアの人々にも強要しましたし、もちろん日本国が一体となって天皇を神として拝ませようとしたのです。その時代を生きた人の証を示されておきます。
1989年3月31日発行の「湘北地区報」(7号)に原稿をお寄せくださった柵山悦也さん(大塚平安教会員)の証をここに再び紹介させていただきます。
「主にありて」(ホーリネス教会弾圧下の家族)、柵山悦也(大塚平安教会員)
「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」。1月7日朝、天皇の死を知った時、私の頭をよぎったのは冒頭の聖句でした。私の両親が特高警察に踏み込まれ、拘引、検挙されたのは1942年(昭和17年)戦争中のことでした。当時私は小学3年生、私達一家は満州国奉天市霞町9番地(現中国東北地方瀋陽市)ホーリネス奉天霞町教会の牧師館に住んでいました。父はホーリネス聖教会に属し満州伝道の責任者として、母も伝道師として福音伝道に従っておりました。此のホーリネス教会弾圧の始まる前に、日本基督教団から時局に応じ聖日礼拝には講壇に日の丸を掲げ、君が代を歌い、東に向かって宮城を遥拝し、天皇を崇めてから礼拝を守る様にとの通知がありました。しかし、それに従わず、キリストの再臨を説いていたのが不敬罪に当たるということで父は起訴され、母は取調べ中に病気になり、二週間ほどで家に帰されました。姉が差し入れのため警察に行き、そこで求道者とばかり思っていた青年が刑事だったと知り、家族皆でびっくりしました。この青年はその後差し入れ、面会に行く度に親切にしてくれたそうです。教会は解散、閉鎖没収されました。父も身体を悪くし翌年釈放され帰ってきました。信者の方の尽力で住居が与えられました。そして、特高警察に目をつけられない為に、郊外にあった満州飛行機の防衛課の庶務として勤務し、母も同じ課の守衛寮の寮母として働くことになりました。両親とも牧師だった事、キリスト者である事を隠さず働いていました。守衛さん達から先生先生と相談を受けたり親切にされて喜んでいました。様々な出来事に出会いましたが、主の恵の中で家族全員が無事社宅を出て霞町の教会へ戻ることが出来ました。そこを孤児収容所として帰国迄、社会福祉に生きた両親、一燈園の孤児たちと共に日本に引き上げることが出来たのも主の恵でした。この時代を生きた両親の信仰から教えられます。「すべての人は上に立つ権威に従うべきである。なぜなら神によらない権威はなく、おおよそ存在している…」(ローマ人への手紙13章)。この世にあっては、この世の事柄に従うが、どうしても譲れない事、神以外のものを神とする事には反対し、信仰の上から強固にそれを守って生き、そして聖書を片時も離さず、絶えず祈りを捧げていた両親でありました。弾圧事件に関しては何も語りませんでしたが、きっと、互いに裁きあう事はやめようとの聖書の言葉に立っていたのでしょう。両親から私に残された形あるものは、聖書と水晶の実印と懐中時計だけですが、主にありて天に宝を積んだ両親の信仰を見習って主に従いつつ生きたいと願っております。昭和天皇の大喪を直近にひかえ、再びあの悪夢の様な、キリスト教弾圧、「アーメン、ソーメン冷ソーメン」、「ヤソ」、「スパイ」、「死ね」の時代に戻らないよう、父なる神に祈り、平和の君イエスの再び来ります日を待ち望みつつ日々歩みたいと思います。(1989年2月12日記す)
聖書の言葉
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ人への手紙11章1節)