鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<452>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<452>
2017年10月14日「子供たちの元気に励まされ」



聖書の言葉
競技場で走る者は皆走るけれども、賞を得るのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。
新約聖書・コリントの信徒への手紙<一>9章24-25節)



9月の終わり頃から10月にかけては、特に運動なるものを示される。いわゆる運動会が各地で開かれるのである。務めている早苗幼稚園は10月7日に開催を予定していた。しかし、当日は雨の予報であり、前日には延期を知らせたのである。そして9日に開催したのであった。思い出す限り、運動会の天気予報で悩んでいたと思う。前任のドレーパー記念幼稚園時代、当日の天候は良くないと示されていた。しかし、はっきりしないので当日を迎える。朝の時点では雲が多くても雨降りではないので決行する。しかし、プログラムが進むにつれ、雨がぽつりぽつりと落ちてくる。プログラムを割愛しながら、早めに終わってしまったのである。言うまでも無く保護者の皆さんから苦情をいただく。こんな天候なので延期にして欲しかったということである。そんなことが心にいつまでも残っているので、天候が良くなければ延期にすることである。今回も7日の開催日は雨こそ少しであり、しかし寒い一日であったので、延期にして良かったと思う。延期された9日は天候もよく、むしろ暑いくらいであった。
ドレーパー記念幼稚園時代の運動会は園庭で開催することができた。120名くらいの子供たちとしては丁度良い広さである。しかし、観客は保護者ばかりではなく祖父母の皆さん、兄姉の皆さんも応援に来られるので、やはり狭さを感じていた。それでも園庭で開催できることは喜びでもある。現在勤めている早苗幼稚園は園庭が狭い。しかも130名もの園児がいるので、開催は不可能である。それで毎年のことながら近くの大鳥小学校の校庭を拝借しているのである。幼稚園から小学校まで歩いて10分もかからないが、そこまでいろいろな運動会用具を運ぶのは大変でもある。しかし、保護者の皆さんが、中でもお父さん達が運んで下さるので、大変ありがたいと思っている。そして、広い小学校の校庭で、お父さん達がいろいろと準備してくださるのである。それに対する感謝もあり、今年は幼稚園の特製のタオルを作っておいた。御礼として差し上げたのである。
幼稚園の子供たちが走ったり、競技をすること、それぞれ楽しいことである。しかし、幼稚園の時代では勝ち負けを前面に出すのではなく、みんなが一生懸命に参加することだけで良いと思っている。それで、例えば「玉入れ」で、籠に入れた球を数え、多く入った組みを「勝」としているが、そうではなく、玉を数えて、白組は何個入った、赤組は何個入ったと報告するだけで、両方の健闘をたたえてあげるのである。多く入ったから「勝」と言わないことにしたのである。運動会が終わり、見学した教会の人が、そういう取り組みは新鮮であり、とても良い取り組みであったと評価されたのであった。「かけっこ」でも、ゴールにテープを張って一番、二番を決めるのではなく、ゴールには担任の先生が待っていて、一生懸命走った子供たちを抱しめてあげるのである。こうして、みんなが参加した喜びを分かち合う運動会を喜んでいる。
自分の運動も励まされている。なるべく散歩をするようにしている。幼稚園に通う前は毎日2時間くらい歩いていた。しかし、幼稚園の園長を務める様になり、それができなくなっている。月水金の三日間は出勤しているが、その他は自宅にいるにしても、あまり散歩ができなくなっているのである。それでも歩けるときは1時間くらい歩いている。朝起きては軽く体を動かすことは毎日しているのだが。子供たちに励まされて、身体を養わなければならないと思っている。もう少し身体を鍛えておき、スペイン・バルセロナに行かなければならない。羊子の子供、孫の義也の運動会には応援に行かなければならないからだ。あちらでは運動会なるものがあるのかな。




玉入れで幾つ入ったかな。


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八ヶ月になる孫の義也君。バルセロナ在住。

隠退牧師の徒然記<451>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<451>
2017年10月1日「存在の確かさを求めて」



聖書の言葉
見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び踊れ。わたしは創造する。
旧約聖書イザヤ書65章17-18節)



スペインではカタルーニャ州独立運動で揺れている。今日、10月1日は独立を求めるカタルーニャ州住民投票が行われる。しかし、スペイン国はこれを赦さず、投票の妨害まで行われているのである。なかなかカタルーニャ州が独立するのは困難のようだ。歴史的にはいろいろな理由があり、スペイン国はカタルーニャ州の独立を阻止しているのであるが、第三者的に見て、極めて素朴な理解であるが、スペイン国からカタルーニャ州が独立するのは、今後スペイン国は困るのである。カタルーニャ州にはバルセロナの街があり、また歴史的にも観光客が絶えない街が多くある。そのカタルーニャからの収入が大きな資金源になっているのがスペイン国なのである。なんとしても独立を阻止したい気持ちはわかるような気がする。しかし、カタルーニャ州の人々は、独特な文化を持ち、もはやスペイン人ではないとの思いが強いようである。
2012年9月から、連れ合いのスミさんと共にバルセロナに滞在する娘の羊子のもとで滞在した。二ヶ月の滞在であったが、バルセロナの人々がスペインから独立したいという、その思いをよく示されたのであった。バルセロナは日本の7時間遅れであり、9月10日に出発しても到着したのは10日であった。翌日の11日には知人のマルケスさんの家に招かれて夕食をいただく。夜の8時頃には家を出たのであるが、街中が騒がしくなっていた。カタルーニャ州の人々がバルセロナに集まっているのである。独立を叫ぶ人々であり、9月11日になると独立集会が開かれているのである。遠くから観光バスでやってきている。人々はカタルーニャの旗を背中に覆い、あるいは旗をなびかせながら広場に集まっていく。それらの人々を見ながらマルケスさんの家に赴いたのであった。そして、その後、家に帰ってテレビで集会のニュースを見るのである。150万人は広場に集まったとか。スペインはその頃4600万人であるが、カタルーニャ州は750万人であるという。その中で多くの人々が独立を叫ぶために集まったのであった。
その後、独立を求める人々が、投票を求める運動が展開される。夜になると、9時頃かと思われるが、人々は食器ややかん等をベランダでたたくのである。マンションのベランダで、人々がものを叩く音は騒音であるが、人々は独立を求めてたたき続けるのであった。それはそんなに長い時間ではないが、世に向かって気持ちを現すときなのである。その音に対して、その騒音に抗議するような音も聞こえてくる。また、ある時、羊子の家に知人を招いて食事をしたのであるが、話題はいつの間にかカタルーニャ州の独立問題になり、白熱した議論が行われていた。皆さんはそれぞれ意見を持っており、独立のことになると口角泡を飛ばして議論するのである。
バルセロナ日本語で聖書を読む会から月報151号が送られてきた。中心になっておられる下山由紀子さんが送ってくださったのである。毎月、聖書研究や皆さんの消息を満載しているが、今回はカタルーニャ州独立の問題について解説されている。随分と参考にさせていただく。バルセロナには2011年、2012年、2014年と滞在している。いずれも二ヶ月、三ヶ月の滞在である。そのためバルセロナ日本語で聖書を読む会にも出席させていただき、説教までさせていただいている。毎月、月報を送ってくださっているので、バルセロナばかりではなく、ヨーロッパ各国のキリスト教集会の様子を知ることができている。バルセロナに在住される皆さんも、独立の機運の中にいるが、頑ななスペイン国の中で、案じつつ過ごされているのである。今後の歩みをお祈りしている。



2012年9月に訪れたとき、カタルーニャの人々の独立を叫ぶ集会。
テレビのニュースより。



カタルーニャの旗をなびかせて独立を叫ぶ。



サグラダ・ファミリア教会も独立を訴えている。



バルセロナ在住の娘羊子が男の子を出産。
もう七ヶ月になっている。

隠退牧師の徒然記<450>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<450>
2017年9月18日「いろいろと予防しながら」



聖書の言葉
邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なお、その上に、信仰を盾として取りなさい。
新約聖書・エフェソの信徒への手紙6章13-16節)



大型の台風18号が通過し、この界隈は被害がないようであるが、地域的には大雨等の水害、土砂災害等、随分と被害が出たようである。被害に遭った皆さんには心からお見舞いを申し上げる。何事も災害に合わないよう備えているが、いずれも想定外の被害と言われる。自然の猛威には、人は対抗できないのである。自然の災害にはいろいろと備えているが、日々の生活において予防しておく必要がある。
昨年、10月から早苗幼稚園の園長を担うことになり、子供たちと共に過ごしているうちにも、いろいろと案ずることが出てくる。一つは、園庭の隣は貸駐車場になっているが、その駐車場と園庭の境は低い垣根である。これでは不審者が侵入しやすいのである。一跨ぎで越えられるからである。その為の対策を教会の役員会に提案していた。教会も受け止めてくれて、園庭の周囲は高いフェンスで囲むことにしたのである。さらに幼稚園の入口は電動シャッターになっている。主任さんが言われるには、停電で動かなくなったことがあるということであった。災害のとき、停電になれば、シャッターを開けることができない。非難することが困難になるのである。しかも低い垣根ではなく、高いフェンスにしているので、そこからも避難ができない。そこで電動シャッターを使いながらも開閉式の門扉を設置したのである。保育中は電動シャッター開けたままであり、開閉式の門扉の出入りとなる。一日の保育が終わった時点で電動シャッターを閉めるようにしたのである。さらに出入り口は緩い傾斜になっており、雨天のときなどはすべりやすいと、主任さんが言われる。それではと入口の端に階段をつけることにしたのである。特に妊婦さんたちには傾斜ではなく、階段を利用してもらいたいのである。子供たちも階段を楽しそうに歩くようになっている。これらは夏休み中に工事が行われ、第二学期が始まり、いろいろな課題が解消されたので、安心の園生活になっている。
夏休み中に行った工事は、掲示板を設置することであった。教会の掲示版はあるが、幼稚園としては使えない。教会の掲示板の外に幼稚園のお知らせ等を掲げていたのである。幼稚園の掲示板を設置することにより、楽しい幼稚園を紹介するようになったのである。夏休み中の工事といえば、二階のベランダの改修を行う。ベランダには簀の子が敷かれていた。子供たちがこのベランダを行き来するとき、かなりの騒音にもなっている。そこで簀の子の下にクッションを付けたのであるが、幾分解消されたが、あまり変わらない。それで二階のベランダの簀の子はすべて撤去することにした。そして、もともとのベランダをきれいに改修したのである。
こうして案ずることはほとんど改修したのであるが、まだ一つだけ課題があった。園舎は一階、二階とも三教室ずつあるが、二階からの避難路は一ヶ所に滑り台が設けられている。しかし、災害時に三教室の子供たちが避難するには足りないのである。そこで避難滑り台をもう一ヶ所設置することにした。前任のドレーパー記念幼稚園時代、避難滑り台が設置されていた。「くるくる滑り台」と称していた。二連式の滑り台で、二階からはすぐに下に降りられるのである。この二連式の滑り台を設置したかったのであるが、今は作られていないということであった。この避難滑り台は遊びにも適しており、いつも滑り台で遊んでいれば、災害のときには敏速に避難できるのである。夏休み中に設置したかったが、手続き上のこともあり、11月頃には設置されることになっている。
予防上のことは、だいたい備えができたと思っている。後は、今でもそうであるが、楽しい幼稚園を続けることである。「楽しい園の生活は、きらきらわくわくのびのびと」を掲げながら園生活が導かれているのである。



園庭を囲むようにフェンスを設置する。



幼稚園の出入り口に開閉式門扉を設置する。



出入り口の傾斜に階段を設置する。



楽しい幼稚園を紹介するために掲示板を設置する。

隠退牧師の徒然記<449>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<449>
2017年9月5日「新しい歩みを示され」



聖書の言葉
そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
新約聖書・マタイによる福音書7章24-25節)



久しぶりに大塚平安教会の礼拝の講壇に立つ。8月27日である。大塚平安教会は2015年6月に新会堂献堂式が行われた。その献堂式の日の礼拝に招かれているのである。従って、新しい教会での説教は二回目となる。しかし、私にとって大塚平安教会は30年6ヶ月在任した教会であり、新会堂前の教会である。新しい教会は二階が礼拝堂であり、一階は集会室、厨房等があり、交わりの場として祝福の建物である。エレベーターまで設置しているので、高齢者や歩行困難な人にはありがたい。新会堂献堂以来二年を経ているので、もはや新しい教会の生活に馴染んでいるのである。いよいよ祝福の教会の歩みを祈るものである。
昔のことをいつまでも記す必要はないが、いろいろな思い出のある昔の礼拝堂について記しておきたい。昔の教会というのは1968年に建設されている。私が大塚平安教会に就任したのは1979年であるから、建設されてから11年経過している。比較的新しい教会というべきであるが、建設費削減のため、古材を利用して建てられたということである。礼拝堂の横に厨房があり、小部屋があった。全体の集会と言えば礼拝堂で行う。また、会食の交わりなども礼拝堂で行っていたのである。教会の中に牧師館があった。礼拝堂の後方は二階建てとなっており、その二階には六畳と四畳半二部屋、そしてキッチンがあった。風呂場と牧師書斎は一階であり、牧師書斎はみなさんが出入りしているので、住宅の中に皆さんが出入りしている感じである。この牧師館で我が家の三人の子供たちたちと共に過ごしたのである。娘の羊子がピアノ科に進むことになり、ひと時はその二階にグランドピアノ、アップライトピアノも置かれていたので、かなり狭いのであるが、何とか過ごしていたのである。しかし、その後、羊子は家を出るようになり、グランドピアノが無くなるので、少しはゆとりが出来る。そして、二番目の星子も学校を卒業するや家を出ての生活になるので、次第に空間ができるようになるのである。それでも子供たちは狭いながらも、この牧師館は我が家と思いつつ生活していたのである。
2010年3月をもってこの牧師館を出ることになり、実家を建て替えていたので、退任後はそこで住むことになる。横浜市金沢区六浦の家である。後任の牧師はこの牧師館には住まないことにする。何しろ、この界隈はネズミの出没が多く、ネズミと一緒に生活していたようなものである。後任の牧師家族に住んでいただくには、あまりにも気の毒なので、別の住居を借りることにしたのである。私が退任する二、三年前から具体的な教会建設が進められていた。完成したのは2015年であるが、2014年から建築工事に入る。工事に入る前に、まだ牧師館においているものがあった。牧師館の屋根裏に部屋を作ってもらっていたので、何かとその屋根裏部屋に置いていたのである。ほとんどが子供たちのものである。その屋根裏部屋を勉強部屋にもしたのであるが、居心地が悪いので、あまり使わなかった。新会堂建設で、今までの建物を解体するにあたり、丁度羊子もバルセロナから一時帰国中でもあり、家族一同で片付けというより、必要なものを拾い上げに行ったのであった。もはや小学生の頃のものが多く、いつまでも手元に置くこともできないので、解体と共に処分してもらったのであった。従って、子供たちの思い出になるものは、処分したことになる。しかし、子供たちにとって、心の中には牧師館生活が焼き付いているのである。
8月27日に招かれ、大塚平安教会の礼拝説教を担当させていただいたが、当然、子供たちも礼拝に出席し、皆さんとのお交わりをしたのである。その新しい礼拝堂で、羊子の子供、義也君と共に家族の記念写真を撮影させていただく。新しい教会と共に、長年過ごした牧師館に万感の思いを寄せながら。



1968年に建設された大塚平安教会。



2015年に建設された大塚平安教会。



新会堂で奏楽する羊子。



新しい教会で家族の記念写真。

隠退牧師の徒然記<448>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<448>
2017年8月26日「幼子を見つめつつ」



聖書の言葉
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」。そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
新約聖書・マルコによる福音書10章13-16節)



「来週の今頃は、もう義也はいないんだね」との会話が多くなる。スペイン・バルセロナに在住の羊子が今年の2月12日に男の子を出産した。私達夫婦として、お祝いに駆け付けたいのであるが、今は幼稚園の園長の職務があり、また連れ合いのスミさんの腰の具合がよろしくないので、行くことができない。スペインは、今まではヨーロッパのどこかの国で乗継をしていたが、東京とマドリッドの直航便が始まり、そして最近は東京とバルセロナの直航便が始まる。もう乗継の必要がなく、飛行機に乗ればバルセロナに行くことができるのである。私は過去三回、バルセロナに赴いたが、乗継で結構苦労しているのである。2011年に赴いたとき、連れ合いのスミさんと次女の星子と三人であったが、成田発が多少遅くなり、フランクフルトでの乗り継ぎができなかったのである。乗り継ぎの時間が一時間しかなく、フランクフルトで乗り継ぎの手続きをしている間に、バルセロナ行には乗れなかったのである。次の便は4時間もまたされる。そのあたりの事情は当時のブログにも記しているので割愛しておくが、毎回乗継には苦労していることが思い出される。バルセロナ直航便ができたので、行きやすくなったことはありがたい。
羊子と義也君は7月24日に帰国したが、8月29日にはバルセロナに戻ることになっている。日本に帰国する前の日々は、「もうすぐだね」と夫婦で語り合っていたが、今は「来週にはいないんだね」と寂しさを語るようになる。今回は私達に義也君を合わせるためが目的で、そのため滞在期間も短い。しかし、帰国することになると、いろいろとお招きがあり、前半は忙しい日々となる。7月27日はグラナドス生誕150年で豊洲シビックセンターホールにてコンサート、浅田真央さんのフィギア、アイスショーで演奏すること、大阪市中央体育館で7月29日-31日、愛知県体育館で8月4-6日に赴くことになる。8月13日には横浜本牧教会でピアノリサイタルが開かれる。しかし、その後はお友達と会うくらいであり、孫と共に歩む生活となる。生後六ヶ月になる孫は重かった。時には抱っこしてあげるのであるが、かなりくたびれる。それでも抱いているうちに眠ってしまう孫をうれしく思うのである。
義也君が生まれてから、娘の羊子は義也君がいろいろな人々に抱かれている写真を送って来る。まだ本当のじいちゃん、ばあちゃんが抱っこしていないのに、面白くない写真であるが、皆さんに喜ばれ可愛がられている孫は、やはり嬉しく思うのであった。こちらでも皆さんから抱っこされており、スペインと同じように皆さんに抱かれている孫の写真集が出来上がるのである。買い物に行ったりすると、羊子が抱いている義也君を皆さんが声をかけてくれる。父親がスペイン人なので、やはり日本の子供の顔とは異なる。どこにいても人気者になる孫に、目を細めているのである。また、来年も帰国すると言うが、もはや歩き始めているであろう。抱っこもできなくなるだろう。今のうちに重みを腕に覚えさせておこうか。



おばあちゃんがミルクを上げて。



孫の重みを忘れずに。



トンカツ屋さんで食事。



散歩でベビーカーを押し、

隠退牧師の徒然記<447>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<447>
2017年8月17日「祝福の成長を祈りつつ」



聖書の言葉
エスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。
新約聖書ルカによる福音書2章52節)



帰国中の娘、羊子の予定がほぼ終わり、後は8月27日の大塚平安教会礼拝奏楽を担当するだけである。特別な予定は、もはや無くなったが、お友達と会うこと、買い物に出かけること、結構協力しなければならない。前週は横浜本牧教会が羊子のピアノリサイタルを開催してくれた。当日は私が講壇に立つことが予定されていたが、午後からリサイタルを開催してくれたのである。12時30分からの演奏であり、礼拝後は軽食が用意され、いただきながらお交わりをする。中でも羊子の子供、義也君を皆さんが可愛がってくださり、代わる代わる抱っこされるのであった。しかし、まだ赤ちゃんである。泣き出したり、むずったりすることは言うまでもない。そのためリサイタル演奏中は園長室に赤ちゃん用の簡易ベッドを置き、我が家の子供たちがお守りをしたのであった。
横浜本牧教会でのピアノリサイタルは今回で二度目である。2010年4月から9月まで横浜本牧教会の代務者、早苗幼稚園の園長を務めている。その8月にリサイタルを開かせていただいたのである。そのときは礼拝堂にグランドピアノをレンタルで置く。礼拝堂での演奏であったが、今回はグランドピアノでなくても、アップライトで良いと羊子が言うので、幼稚園舎で開催となった。約70名の皆さんがお集りくださる。皆さんが喜んでくださったことは、私達夫婦も喜びである。
羊子のピアノ演奏については、インターネットでCDを購入できるようで、注文してはセブンイレブンで受け取るとか。演奏についてはユーチューブとやらで聞くことができる。羊子が言うには、勝手にネットに乗せてしまうので迷惑であるとも。今はネットの世界で、なんでもネットが媒介になる。知らないのは加齢の親ばかりなのである。今や世界中の人たちが羊子の演奏に触れることができると言う訳か。羊子は8月29日にはバルセロナに戻る。戻れば、既にいくつかの場でリサイタルが予定されている。以前の羊子ではなく、子育てをしながらの演奏は、かなりきついと思うが、本人の前向きな姿勢には見守る他はない。
義也は2月12日に生まれたので、8月12日は六ヶ月になる。その六ヶ月の成長を記念して幼児洗礼式を執行した。本来、洗礼は教会の名において執行するものである。その為には教会に願い出て、役員会の承認を得、準備のときを持つのであるが、我が家の家族が証人となり、六浦谷間の集会として幼児洗礼式を執行したのである。教会で受けても、バルセロナで成長するので、常時不在となる。存在がわからなくなるのである。そのような手続上のことは省略して、家族の喜びを優先したのである。成長に従い、羊子は義也に幼児洗礼を授けられていることを示すことであろう。しかも、祖父からであることを示していくであろう。
それにしても六ヶ月になる義也君の重いこと。抱っこしていると、かなり疲労がたまるのである。それも喜びなのであるが、バルセロナに行っても、重さの感触は残っているであろう。FaceTimeでいつもまみえることになるが、画面ではなく、その重さの方が腕の中に残っているのである。また、来年も帰国すると言っているが、抱っこして歩くことはなくなるだろう。子どもたちの成長は、自分の加齢より早く感じるのである。健やかな成長をお祈りしている。



横浜本牧教会にて説教。羊子と義也君も礼拝に出席。



ピアノリサイタル。アップライトで演奏する。



義也君の幼児洗礼式。



おばあちゃんが本を読んであげるのだが。

隠退牧師の徒然記<446>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<446>
2017年8月5日「まごまごしながら」



聖書の言葉
孫は老人の冠、子らは父の輝き。
旧約聖書箴言17章6節)



スペイン・バルセロナ在住の娘、羊子が今年2月12日に生まれた義也と共に一時帰国中である。7月24日に羽田着であり、優と共に迎えに行く。空港で初めての対面となる。初めてと言っても、いつもFaceTimeで対面しているので、もはや見慣れているのである。それでも空港で抱っこしたときには、初めての孫の実感を得るのであった。すぐに車で実家に到着する。連れ合いのスミさんも初めて抱く義也君を喜んだのであった。それからの生活が大きく変わる。いつもは連れ合いのスミさんと二人の、静かな生活であるが、時には大泣きする義也君にいつも気をとられなければならない。ミルクを上げること、おむつを取り替えること、眠くなる時に抱いてあげること、老人夫婦には大変なことである。そこで我が家の子供たち、星子や優の応援を頼むことになる。羊子は24日に帰宅したが、翌日の25日には大阪へ打ち合わせに行く。29日から31日まで、大阪市中央体育館で開催される「TheIce2017」で演奏するからである。フィギアの浅田真央さんが、羊子の演奏するスペイン曲「火祭り」で滑っているが、その羊子が日本に一時帰国することを知り、是非、本人の演奏で滑りたいと言われたのである。それが一時帰国する数日前に決まり、早速打ち合わせに出かけることになる。さらに27日には「グラナドス生誕150年」コンサートが開かれ、そこで演奏することになる。そのため26日にはリハーサルに出かける。帰国しても出かけることが多く、子供の義也君を連れてゆくわけにはいかないので、我が家の子供たちが交代でヘルパーにやって来たのである。ヘルパーの世話になるが、時にはミルクをあげたり、おむつを替えたり、抱っこして寝かせたり、老夫婦も出番が重なる。そして28日から羊子は義也君と共に大阪へ、優がヘルパーで同道する。四日間はまた夫婦の生活に戻るが、やれやれとの思いであった。
8月1日から2日は在宅したが、3日から6日までは名古屋である。愛知県体育館で大阪と同じようにアイスショーが開催されるのである。6日の日曜日の夜には帰宅することになっている。大阪にしても名古屋にしても、いずれも新幹線に乗るので「新横浜駅」まで、車で送り迎えするようになっている。今まで、車で新横浜に行く機会がなかったが、こんなに何回も行き来するとは。新横浜の駐車場に入れたものの、出方がわからない。まごまごはしていると係員が来て、手続きの仕方を教えてくれる。もはやまごまごすることなく、車の出し入れができるようになった。
孫の義也君の世話をしながら、我が家の子供たちのことを思い出していた。もう昔のことで、あまり思い出せない。色々と世話をした思い出がないのである。子どもが生まれれば、連れ合いのお母さんが来てくれて、育児をしてくれた。結婚して、羊子や星子が生まれても、連れ合いのスミさんは明治学院に勤めていたし、私は青山教会の副牧師として毎日のように出かけていたし、乳幼児の育児に携わった思い出がないのである。ミルクをあげたり、おむつを替えたり、おんぶしたことは、うすうす思い出すのであるが。
アイスショーが終われば、後は羊子もそれほどの予定がない。8月13日は横浜本牧教会でピアノリサイタル、8月27日は大塚平安教会の礼拝奏楽が予定されているが、他は知人、友達に会うことくらいである。せっかく帰国したのであるから、自宅で過ごしてもらいたいと思っている。老夫婦が張り切る時なのだ。



日本に出発する前、パパと。



初めてのフライト。約20時間、おとなしくしていたとか。



初めて抱っこする孫。羽田空港にて。



浅田真央さん達のスケート・フィギアで演奏する羊子。
プログラムで紹介されている。大阪と名古屋で開催。