鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<449>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<449>
2017年9月5日「新しい歩みを示され」



聖書の言葉
そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
新約聖書・マタイによる福音書7章24-25節)



久しぶりに大塚平安教会の礼拝の講壇に立つ。8月27日である。大塚平安教会は2015年6月に新会堂献堂式が行われた。その献堂式の日の礼拝に招かれているのである。従って、新しい教会での説教は二回目となる。しかし、私にとって大塚平安教会は30年6ヶ月在任した教会であり、新会堂前の教会である。新しい教会は二階が礼拝堂であり、一階は集会室、厨房等があり、交わりの場として祝福の建物である。エレベーターまで設置しているので、高齢者や歩行困難な人にはありがたい。新会堂献堂以来二年を経ているので、もはや新しい教会の生活に馴染んでいるのである。いよいよ祝福の教会の歩みを祈るものである。
昔のことをいつまでも記す必要はないが、いろいろな思い出のある昔の礼拝堂について記しておきたい。昔の教会というのは1968年に建設されている。私が大塚平安教会に就任したのは1979年であるから、建設されてから11年経過している。比較的新しい教会というべきであるが、建設費削減のため、古材を利用して建てられたということである。礼拝堂の横に厨房があり、小部屋があった。全体の集会と言えば礼拝堂で行う。また、会食の交わりなども礼拝堂で行っていたのである。教会の中に牧師館があった。礼拝堂の後方は二階建てとなっており、その二階には六畳と四畳半二部屋、そしてキッチンがあった。風呂場と牧師書斎は一階であり、牧師書斎はみなさんが出入りしているので、住宅の中に皆さんが出入りしている感じである。この牧師館で我が家の三人の子供たちたちと共に過ごしたのである。娘の羊子がピアノ科に進むことになり、ひと時はその二階にグランドピアノ、アップライトピアノも置かれていたので、かなり狭いのであるが、何とか過ごしていたのである。しかし、その後、羊子は家を出るようになり、グランドピアノが無くなるので、少しはゆとりが出来る。そして、二番目の星子も学校を卒業するや家を出ての生活になるので、次第に空間ができるようになるのである。それでも子供たちは狭いながらも、この牧師館は我が家と思いつつ生活していたのである。
2010年3月をもってこの牧師館を出ることになり、実家を建て替えていたので、退任後はそこで住むことになる。横浜市金沢区六浦の家である。後任の牧師はこの牧師館には住まないことにする。何しろ、この界隈はネズミの出没が多く、ネズミと一緒に生活していたようなものである。後任の牧師家族に住んでいただくには、あまりにも気の毒なので、別の住居を借りることにしたのである。私が退任する二、三年前から具体的な教会建設が進められていた。完成したのは2015年であるが、2014年から建築工事に入る。工事に入る前に、まだ牧師館においているものがあった。牧師館の屋根裏に部屋を作ってもらっていたので、何かとその屋根裏部屋に置いていたのである。ほとんどが子供たちのものである。その屋根裏部屋を勉強部屋にもしたのであるが、居心地が悪いので、あまり使わなかった。新会堂建設で、今までの建物を解体するにあたり、丁度羊子もバルセロナから一時帰国中でもあり、家族一同で片付けというより、必要なものを拾い上げに行ったのであった。もはや小学生の頃のものが多く、いつまでも手元に置くこともできないので、解体と共に処分してもらったのであった。従って、子供たちの思い出になるものは、処分したことになる。しかし、子供たちにとって、心の中には牧師館生活が焼き付いているのである。
8月27日に招かれ、大塚平安教会の礼拝説教を担当させていただいたが、当然、子供たちも礼拝に出席し、皆さんとのお交わりをしたのである。その新しい礼拝堂で、羊子の子供、義也君と共に家族の記念写真を撮影させていただく。新しい教会と共に、長年過ごした牧師館に万感の思いを寄せながら。



1968年に建設された大塚平安教会。



2015年に建設された大塚平安教会。



新会堂で奏楽する羊子。



新しい教会で家族の記念写真。