鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <107>

 

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<107>
2012年6月6日 「生きている限り読み返し」 


聖書の言葉
彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。そうすれば王は同胞を見下して高ぶることなく、この戒めから右にも左にもそれることなく、王もその子らもイスラエルの中で王位を長く保つことができる。
申命記17章18-20節)



 前回は聖餐式について記し、私が最初に聖餐式の執行をしたことに言及し、当時の週報を紹介したのであった。そのことから昔の印刷物を思い出し、しばし思い出を甦らせていた。その余韻がしばらく続いている。そんなことで机の横にガリ版を立てかけていることを思い出し、卓上に置いて、触ってみたり、撫でて見たり、当時のことが懐かしむのであった。
 ガリ版は正式には「鑢」(ヤスリ)と称する。細かいヤスリの上に蠟原紙を置き、鉄筆で文字や絵を書く。ヤスリの上で文字を書くとき、ガリガリと音がするのでガリ版と称するようになったのである。できあがった原紙を騰写版(とうしゃばん)にセットし、インクを施してローラーで刷る。この印刷で100枚でも200枚でも印刷できるのである。昔の簡易印刷はほとんど騰写版印刷であった。もともとこの騰写版の発明者はトーマス・エジソンであると言われている。1894年ころから日本で使われ始めたと言われる。
 私がガリ版印刷を手掛けたのは高校生時代である。その頃は横浜にある清水ヶ丘教会に出席しており、高校生グループで活躍している。グループが集会案内書や文集等を発行するようになり、メンバーが下手ながらもガリ版印刷に挑んでいたのである。教会には騰写印刷で店を開いている人がおられ、その人から指導されて基礎的な印刷ができるようになったのである。青少年時代に騰写版印刷を覚え、神学校に入るや、早速腕の見せ所となる。やはり文集を発行したりしている。そして、1969年に青山教会の伝道師に就任するのであるが、週報は騰写版印刷であり、その他の印刷物はもっぱら伝道師が作成することになっていた。その当時はどこの世界も騰写版印刷であった。会社にしても学校にしても騰写版印刷であり、印刷屋さんも忙しかったようである。
 その後、宮城県の陸前古川教会に赴任してからも騰写版印刷に明け暮れたとの思いである。週報印刷と共に案内書、文集等の発行はすべて牧師が引き受けていたというわけ。「先生は騰写版印刷がお上手だから」との言葉に乗せられていたことも確かである。しかし、ガリ版で文書を作ることは、そんなに簡単ではない。ヤスリの上で字を書くので、ヤスリのルールを知っていないと書けないのである。土曜日の夕方から週報を作り始め、印刷が終わるのは夜が明ける頃もあった。その頃、週報はB4用紙裏表、すなわちB5版4頁もあるものを作っていたのである。礼拝順次、報告、消息の他に、牧会報告と称してB5版一面に何やら書いていた。




使っていた鑢、ヤスリ。もう昔の骨董品でヤスリにさびが生じている。



作成した案内書。



夏期学校のプログラム。



神学生時代に作成した文集。
自らも「雲と信仰」と題して山村暮鳥論を執筆している。



 1979年大塚平安教会に赴任したときは、週報や印刷物はタイプ印刷であった。輪転機という印刷機があって、それからは騰写版印刷に別れを告げなければならなかった。タイプ印刷時代になり、教会にしても幼稚園にしてもタイプ印刷で行うか発注するようになった。さらに、1980年代には手書き原稿をドラム型スキャナで転写し、原紙を作成する「謄写原紙自動製版機」(当時はこれもファックスといった。ファクシミリと区別するためトーシャファックスとも呼ばれた)が登場し、イラストなどもそのまま印刷できるようになった。「プリントゴッコ」というハガキサイズ専用の謄写印刷も出回り、騰写版印刷は遠のいて行くのである。そして、ワープロなるものが出現し、しばらくはワープロ印刷が続くのであるが、今度はパソコンで文書が作られ、すぐにプリンターで出力できるようになる。そして、今作業中の説教集の自作出版ということになる。便利なものが出回り有難いのであるが、印刷の原点である騰写版印刷は常に心に示されている。今もなお騰写版印刷を手掛けている人がおられると言われる。機会があれば、再びガリ版を使ってみたいと思うのであるが。もはや騰写版の印刷機は手もとにないし、材料を扱っている店は限られているだろう。だから、今は、昔の騰写版印刷の発行印刷物をダンボールから取り出して、思い出に浸ることであろう。