鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <106>

 

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<106>
2012年6月4日 「一つの体へと導かれ」 


聖書の言葉
わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。
(コリントの信徒への手紙<一>10章14-17節)


 
昨日の6月3日は三位一体祭としての礼拝をささげる。前週の聖霊降臨祭礼拝には追浜にお住まいの小澤八重子さんが出席されたので、私達夫婦と三人で礼拝をささげる。今回は我が家の子供達が出席したので、5人の出席者であった。礼拝を始める前に、娘の星子が聖餐式執行について尋ねる。この六浦谷間の集会でも礼拝時に聖餐式を執行することになり、4月8日のイースター礼拝で行われた。今後は定期的に執行することにしたのであるが、5月は第二日曜日に横須賀上町教会の礼拝説教を担当し、聖餐式を執行したので六浦谷間の集会では聖餐式を執行しなかったのである。毎月、第二日曜日には横須賀上町教会で聖餐式を執行するので、六浦谷間の集会における聖餐式執行の思いが薄れていたことは確かである。子供達が必ずしも横須賀上町教会に出席することではないので、やはり六浦谷間の集会においても聖餐式をしなければならないのである。今回は執行しなかったが、6月からは第一日曜日に執行することにしたのである。
 横須賀上町教会で聖餐式を担当するのは、4月から就任した宮澤恵樹先生は補教師であり、日本基督教団の定めにより、補教師は聖餐式を執行できないことになっている。そのため聖餐式のある第二日曜日には私が礼拝と聖餐式を担当することになったのである。横須賀上町教会のように、神学校を卒業したばかりの牧者が赴任する教会が結構ある。同じように他の教会の牧師に聖餐式執行を依頼する。それらの補教師の皆さんが3年後に正教師になったとき、初めてその教会の聖餐式を執行する。本人も教会の皆さんも感激のひとときなのである。祈りつつこの日を待っていたからである。
 私の場合は神学校を卒業して赴任したのは東京の青山教会であった。こちらの教会は主任牧師の宮内彰先生がおられ、もちろん聖餐式は宮内先生が執行していた。青山教会には4年間在任したが、就任して3年後には私も正教師になる。補教師の間は伝道師であったが、正教師になってからは副牧師となる。副牧師でも正教師であるので聖餐式の執行はできる。しかし、主任牧師がおられるので、青山教会では聖餐式の執行はなかった。私が初めて聖餐式を執行するのは宮城県の陸前古川教会に赴任してからである。1969年4月に赴任したが、聖餐式を執行するのは6月からのようである。「ようである」と記しているのは、その時のことについては思い出せないのである。当時の週報を紐解いて見るが、4月、5月の週報の礼拝順序には聖餐式の執行については記してない。週報の5月の役員会報告に、「6月から毎月第一日曜日に聖餐式を執行することにしました」と記してある。それまでは第一日曜日に聖餐式を執行するということはなかったようである。1973年6月3日、この日に私が初めて聖餐式を執行したことになる。その時はどんな思いであったのか、記録が残されてないので分からないが、初めての聖餐式を執行したことで、もちろん感激の思いはあったであろう。
当時の週報を繰っていると、その月の6月24日には仙北地区連合礼拝で、私が聖餐式を担当している。昔は東北教区宮城分区仙北地区と称していた。仙台の北にある地区には七つの教会があった。七つの教会は小規模の教会であり、陸前古川教会でも礼拝出席者は20名前後である。20名は出席者が多い方で、10名前後の教会もあるのである。だから一年に一度、地区内の教会が集まり連合礼拝を開催していたのである。この時は鳴子教会で開催され、七つの教会から70名の皆さんが出席している。この日はお弁当持参で、礼拝後はお弁当をいただきながら交わりを深めるのである。赴任したばかりの牧師が、聖餐式もまだ二回目という経験であり、おそらく緊張しつつ聖餐式を執行したのであろう。
牧者に導かれており、洗礼式、聖餐式を執行することの喜びは、伝道者に導かれている使命が深められる時なのである。尚、六浦谷間の集会における聖餐式については4月11日のブログに記している。



1973年6月3日、陸前古川教会の週報。
当時はガリ版印刷で、下手ながらも一生懸命作っていた週報である。
礼拝順序の中に聖餐式がある。



連合礼拝の案内書。これも私が作ったものである。