鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <56>

 

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<56>
2012年2月8日 「道を歩きながら」 


聖書の言葉
パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたの信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしは知らせましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはおすみになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものをあたえてくださるのは、この神だからです。」
使徒言行録17章22-25節)


 毎日散歩しているのであるが、途中、二箇所にお地蔵さんの社がある。一つは追浜の雷神社の近くにある。25体のお地蔵さんが並んでおり、いずれも赤いよだれかけをつけてもらっているが、お地蔵さんは子供の守護神とも言われるからである。ひとまわり歩き、六浦駅を過ぎて線路際を歩くと浅間神社がある。くたびれた階段を登ったところにあるのだが、その登り口に六地蔵が置かれている。六地蔵はそれぞれの意味があるようであるが、それは省略するとして、やはり赤いよだれかけをつけられていた。基本的には子供の守り神として信じられているようである。追浜にしても六浦にしても、これらのお地蔵さんの前にたたずんでお祈りしている人を見かける。昨日の散歩は六地蔵を観察しているうちにも、くたびれた階段を上り浅間神社を見に行った。昔、小学生の頃に遊んだことがある。60年以上昔である。どんな神社であったか記憶になく、だから実際に浅間神社の前にたたずんだ時、こんなに小さな社であったのかと思うのであった。小高いところなので、かなりの眺望を楽しむことが出来る。そういえば元日に初日の出を浅間神社で拝もう、なんて案内があったようである。



追浜にある雷神社。久しぶりに訪ねてみて
こんなに色彩豊かな神社とは思っていなかった。



雷神社の近くにある25体のお地蔵さん。



 最近は神社仏閣のことばかり書いているようであるが、日本において歴史を歩んできた神社仏閣を示されているということである。ヨーロッパの歴史、地中海世界の歴史、ルネッサンスの時代等、改めて「世界史」を読み、ヨーロッパの世界が徐々にできあがって行く様を知るのであるが、破壊と発掘の歴史を読むことになるのである。壮大なローマ帝国が生み出したものは、数々の芸術である。建物にしても、彫像にしても、インフラである水道橋とか道路建設にしても、芸術と技術を駆使して造られたものばかりである。ところが、もともとローマは多神教であったが、キリスト教を国教とした時、偶像崇拝を禁じることで、芸術作品でもある彫像の数々を破壊するのである。あるいは大きな教会を建設する材料として、今までの建造物を破壊し、それらを材料にしたりするのである。早く言えば、キリスト教ローマ帝国の芸術品を破壊したことになる。さらにまたルネッサンスの時代、新しい芸術が生まれて行くのであるが、その後に起きる反動宗教改革によっても芸術品等の破壊が行われる。ローマばかりではなく、ヨーロッパの歴史はキリスト教イスラム教世界との戦いであり、支配がイスラム世界になれば、キリスト教の教会や彫像が破壊される。またキリスト教の世界になるとイスラムの社会が破壊されるのである。しかし、芸術を理解する支配者がおり、イスラム教のモスクの建物をそのまま残して教会にし、イスラム教も教会を破壊しないでモスクにしている場合もある。以前、タリバンが岸壁に造られている大仏像を破壊する映像をテレビで見たが、一つの宗教が他宗教を破壊することは歴史において繰り返されているのである。創元社発行のクロード・モアッティ著「ローマ・永遠の都」(一千年の発掘物語)を読んで、破壊と発掘をつくづくと示されたのであった。そこには宗教が深く関わっているということである。
そのような世界史を示されながら、日本における神社仏閣、お地蔵さんの存在を思うとき、日本の歴史において極端な破壊の歴史はないようである。神道が仏教を破壊することはなかったし、仏教が神道を破壊することはなかったからである。むしろ日本の戦争中に破壊が行われたのである。もともと資源がない日本であり、寺の鐘をはじめ芸術品にいたるまで、使われていたものを破壊しては戦争の武器にしたのである。
神社仏閣にしてもお地蔵さんにしても興味を持って覗くのは、それぞれ芸術作品として見たいからである。それにしてもプロテスタント教会は、十字架の他は何もない。パイプオルガンが置かれていると言うだけで目を見張るのであるが、芸術的なものは何一つない。信仰が中心なのだからそれでよい。しかし、外国の芸術作品、中でもカトリック教会の芸術には目を見張るのである。それに対して日本の神社仏閣は芸術であり、おもむきというものがある。
六浦にある小さな浅間神社も芸術作品として鑑賞したということである。



浅間神社の鳥居と登り口。



浅間神社。小さな社であるが、それなりに芸術を見る。



浅間神社上り口にある六地蔵